惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

世界が狭っ苦しい

 と、最近感じる。

 狭くなったのは私の認知フレームなのやもしれぬが。

 

 たぶん、一番大きな原因は以前の私は新しい知識を得ることでワクワクできたのに、今ではそれが難しくなっていること。

 TwitterとかFacebookとか、始めたての頃は本当にワクワクしたような気がする。もっとも、回顧は常に美しいが。

 でも、私以外の何人かの人たちも、「SNSが詰まらなくなった」とは言っていた気がする。

 もしかして、サイバースペース自体が探索され尽くしつつあるのかな……。

 私の知ったところではないが。

いろいろと書く

 最近、自身の身の振り方とか、自分が何をしたいかについて、考えることが多い。中学生か。

 ただ、私としては真面目に考えているつもりだ。

 

 とりあえず、結論として私は研究者・学者には向いていないと思う。

 体系化された知識、それは専門分野といってもいいかもしれないが、それがない。

 あるのは、断片的で相互に関連のないトリビアルな知識だ。職業として研究を行うことに、やはり向いていないだろう。

 

 そして、自分が何をしたいのか。やはり、こう考えるのは傲岸かもしれないが、「世界を変えたい」という気持ちはある。

 でもそれは、社会起業家になることでも、マルクス主義革命を主導することでもなくて、単に世界という、70億以上の人間が各々の生を持ってひしめく世界という総体に、ただ "+1" していきたい、ということだと思う(レトリカルかつ、知性より感性に訴える言い方で申し訳ない)。

 極端化して言えば、私が生まれて両親が喜んでくれた、それで私の意義というものは完遂されているのかもしれない。だから、それ以上は私のエゴイズムであり、自己満足なのだ。でも、敢えてその先をここには書こうと思う。

 まず、両親に喜んでもらうことは、これはこれで途方もなく重要なことだが、しかし両親も人間、つまり死すべき者であるということを、思い起こすべきではある。

 要は、私の家族がいなくなったとき、私の存在意義はどこにあるか、という問題である。弟は私より長生きするだろうし、してほしいと願っているが、彼は彼で家族を持つだろう。老いた兄の面倒を見る義務を彼は負っていない。

 大多数の人は、自分も結婚し、子どもを生み、そしていつかは孫の顔も見て、そして死んでいくことに、意義を見出そうとするのではないだろうか。

 ただ、私は結婚できる望みもないし、私は私なりの生きる路があると信じたい。

 何が、人間にとって幸福だろう?

 人間は不思議なことに、「自分を必要とする他者を必要とする」生物である。私も、他者に必要とされることを必要としている。そして社会と繋がっていたい。

 蛇足だが、他者に必要とされる、という際の『他者』とは、「自分の想像力の及ぶ限りにおいて、自分と入換可能な存在」かなあ、とか思ったりしている。これはもうちょっと考察したい。

 

 いろいろ悩んでいるな、俺。

 でも、一応やってみたいことなどもある。たとえば、実をいうと個人図書館をつくってみたい。本は書き込み可にして、それをメディアとして人が繋がるような。

 ただ、マニアックな図書館になるだろうな。実現できたとして。

 

 あと、物語とプログラミングとの関連とか、ゲーム作りとか、もし軌道エレベータやそれに類するものができたら地球の社会・経済はどうなんのとか、細々したことは考えている。繋げるヨスガをまだ見つけられていないが……。

 

 こんなことを、今日、2015年7月26日時点で考えている。一年後、このBlogを見ることがあるとして、そのときの私は何を思うだろう。そして、何をしているだろうか?

コンテクスト依存な知識とコンテクスト・フリーな知識

 科学は、再現性を持つため(それは科学の定義のひとつだ)に、万人にとって役立ちうる知識だ(この「役立つ」という言葉は曲者だが、その定義に関する神学論争は措いておこう)

 科学には再現性がある。どんな人でも、その基礎的な能力さえあれば、同じコードを書けば同じ出力結果だろうし、同じ温度・圧力であれば水は100℃で沸騰するし、同じ時季同じような天候条件で同じような土地に同じような種を蒔けば同じような作物を得られるだろう。これらは、コンテクストに依存しない、言ってみれば「コンテクスト・フリーな」知識だと言える。誰がいつどこでやろうと、その条件が明示的でありかつそれを満たしていれば同じ結果を得られる。

 他方で、「コンテクスト依存な」知識もある。あなたがお祖母ちゃんから、煮物をつくるとき、美味しくするための煮加減を教わったことがあるとしよう。それは、おそらく条件が明示的でなく、また「美味しさ」は人によって違うため、強くコンテクスト依存的な知識の例である。こういった知識は、汎用性がない。しかし、これらのある意味で vernacular で local な知は、「誰しもの」役には立たないかもしれないが、「誰かの」役には立つ、そういう知識である。

 本質的に、GoogleAmazonAppleFacebook が行っている『ビッグデータ』とは、そういうコンテクスト依存な知識のコンテクストを explicit にして、それらを「コンテクスト・フリー化」する試みだと言える。相関関係を明確化に統計として集積し、ある事象Xが起きたときに共起する A, B, C, ...を列挙していく、そういう世界を理解するためのアプローチだ。

 では、本当に全てのコンテクストを明示化できるのだろうか?

 私はそれに対しては悲観的だ。なぜなら、(これはほとんど私の信念といったものなのだが)「世界に対して人間の知は圧倒的に小さい、というか前者は無限であるが後者は有限であり、後者が前者に追いつくことは原理的にない」からだ。

 世界には事実上無限の変数群がある。それらを全て列挙するのは、神ならぬ身にてはおよそ不可能なことで、それはどんなスーパーコンピュータにも不可能なのである。そういう意味で、私は不可知論者的だ。だいたい、スーパーコンピュータでゴリゴリ計算するなんて、エレガントではない。

 何か、コンテクストの implicity を保持したまま、知を集積する方策が求められる。

 そんな気がする。

人の「個としての弱さ」「集団としての弱さ」そして縁

 とある友人のFacebookポストを見て、思ったことをつらつらと。

 

 以前、私なりの思索として『弱さ論』というものを書いた。

 

 

kaito-y.hatenadiary.com

 

 

kaito-y.hatenadiary.com

 

 今回、その友人はある世界的にも著名な芸術家のトークイベントに足を運んで、そこでそのアーティストが下記のようなことを述べていたとしている。

 

「人の本質は弱いものだ。けれども、本質だからこそ無くならないものです」(これはアーティストの言葉を私の友人が記憶を頼りに意訳したものを、更に私が孫引きした形だ)

 

 同時に、そのアーティストは『縁』をも強調していたという。

 思うに、私の弱さ論においては弱さそれ自体が世界の多様性を知る契機であったが、アーティストのこの芸術論においては世界それ自体と人間とが接続する契機なのでは、という気がする。そういう意味で、私とアーティストの『弱さ論』は(不遜な言い方が許されるなら)シンクロしている。

 ただ、私よりそのアーティストが進んでいると思ったこととして、『縁』という概念を援用した点だと思う。それを踏まえ、私もそれなりの考察を試みる。

 

 人間というのは、「ポリス的動物」の謂を持ち出すまでもなく、単体では弱い。そして、(不謹慎な言い方だが)「集団になっても弱い」のが興味深い。

 ただ、単体時での人間の弱さは物理的生物学的な弱さなのだが、集団としての弱さは(ある種言いがたいものがあるが)「人間的な弱さ」というか、たとえばイジメのような形で立ち現れる弱さであると思う。

 謂わば人間は弱者たることのジレンマ/アポリアにある。単体でも、集団でも、結局は人間は弱い、それらは質的に異なるものといえ。

 そこを何とか突破しようというのが、『縁』『回向』というものではないだろうか、という直観を抱いた。

 たとえば、縁は異なもの味なもの、なる慣用句に見られるように、縁とは「こちらで選べない」

 となると、我々は運命が与える縁を享受し、そしてそれを十全に活かすより他はない。つまり、縁というのは全く偶然的で「原因が不在」しているものを、ある種のポジティブさを以て受け入れることを意味している。

 さて、集団としての人間の弱さは、先ほどのイジメなど良い例だが、集団の閉鎖性とか、あるいは場合によってはある種の目的意識に起因する部分が大きい、ということは言えそうだと思う。

 一方、縁というコンセプトは閉鎖性を揺らがせ、そして目的意識を否定する。

 それはあくまでも個に生じるイベントとして現出し、しかしながらそれを通じて集団に摂動を、場合によっては重大な変化を与える。

 この辺り、稿を改め後日考究したい。

Agent-based Social Simulation が持つ「超越者の視点」?

 最近、朧に思うこととして「ABSSが持つ『超越者の視点』」と仮に呼んでいるものがある。

Agent-based social simulation - Wikipedia, the free encyclopedia

 要は、社会シミュレーションというものは当然というか社会の全てを再現することは不可能だしあまり意味もないことなので、社会現象を「上手く切り取って」それを再現することで予測や理解を行う、という意図を持っている。

 ところで、特にABS(Agent-based Simulation)を考えてみると、コンピュータ内の小さな『社会』(の一部)を見ているコンピュータ外のシミュレートを実施した研究者とは、一体『誰』なのだろうか?

 直観的には、やはりその視線は我々にとっての(それが実在するしないは一旦措くとして)『神』のものではないだろうか。ABS特にABSSは、研究者までその系として考えると必然的に『神』という存在を措定する。

 しかもこの『神』= 社会シミュレーション研究者は、彼が実際に住む実在世界ではそのような視点を持ち得ないのである。

 さて、この『超越者の視点』から、我々は(上手く現象を切り取れたとしても)社会現象特に非線形複雑系として考えうるそれを十全に理解したり、或いは予測したりすることができるのだろうか。

 それに答えられるような能力は、今現在の私にはない。

 一方で、ひとつ指摘したいこととしては、これも結局はセム的一神教的思想の系譜の延長線上に考えられないか、という点である。

 本来、ABSなどを含め複雑系科学は既存の還元主義的科学パラダイムへのアンチテーゼとして提起されたという経緯がある(ABS複雑系科学と呼ぶかは議論の余地がある)

 そして、元来の還元主義的な科学はデカルト以来の合理的思考の伝統を脈々と継受している。それは、かなりの程度がニュートン的な「神が自然にエンコードした秘密を解読したい」という欲求にもとづいてはいた。

 そう考えると、複雑系科学は「ほぼデコードし終えたので、今度は自分たちでそれを実装してみよう」という発想が根底にあるのかもしれない。

 この辺りを深堀りすれば延々と科学史・科学哲学の深淵に進みそうなので、今日はこの程度で引き返そう。