人の「個としての弱さ」「集団としての弱さ」そして縁
とある友人のFacebookポストを見て、思ったことをつらつらと。
以前、私なりの思索として『弱さ論』というものを書いた。
今回、その友人はある世界的にも著名な芸術家のトークイベントに足を運んで、そこでそのアーティストが下記のようなことを述べていたとしている。
「人の本質は弱いものだ。けれども、本質だからこそ無くならないものです」(これはアーティストの言葉を私の友人が記憶を頼りに意訳したものを、更に私が孫引きした形だ)
同時に、そのアーティストは『縁』をも強調していたという。
思うに、私の弱さ論においては弱さそれ自体が世界の多様性を知る契機であったが、アーティストのこの芸術論においては世界それ自体と人間とが接続する契機なのでは、という気がする。そういう意味で、私とアーティストの『弱さ論』は(不遜な言い方が許されるなら)シンクロしている。
ただ、私よりそのアーティストが進んでいると思ったこととして、『縁』という概念を援用した点だと思う。それを踏まえ、私もそれなりの考察を試みる。
人間というのは、「ポリス的動物」の謂を持ち出すまでもなく、単体では弱い。そして、(不謹慎な言い方だが)「集団になっても弱い」のが興味深い。
ただ、単体時での人間の弱さは物理的生物学的な弱さなのだが、集団としての弱さは(ある種言いがたいものがあるが)「人間的な弱さ」というか、たとえばイジメのような形で立ち現れる弱さであると思う。
謂わば人間は弱者たることのジレンマ/アポリアにある。単体でも、集団でも、結局は人間は弱い、それらは質的に異なるものといえ。
そこを何とか突破しようというのが、『縁』『回向』というものではないだろうか、という直観を抱いた。
たとえば、縁は異なもの味なもの、なる慣用句に見られるように、縁とは「こちらで選べない」
となると、我々は運命が与える縁を享受し、そしてそれを十全に活かすより他はない。つまり、縁というのは全く偶然的で「原因が不在」しているものを、ある種のポジティブさを以て受け入れることを意味している。
さて、集団としての人間の弱さは、先ほどのイジメなど良い例だが、集団の閉鎖性とか、あるいは場合によってはある種の目的意識に起因する部分が大きい、ということは言えそうだと思う。
一方、縁というコンセプトは閉鎖性を揺らがせ、そして目的意識を否定する。
それはあくまでも個に生じるイベントとして現出し、しかしながらそれを通じて集団に摂動を、場合によっては重大な変化を与える。
この辺り、稿を改め後日考究したい。