惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

『知恵』

 のっけから私事ではあるが,私の両親は二人とも高卒で,明らかに東大卒・現大学院生の私より,学歴としては下である。また,彼らは宣言的な(明示的に言葉で示せるような)知識の量においても,私に遠く及ばないであろう。つまり,一般的な観方をすれば,まず間違いなく彼らは私よりも「頭が良くない」はずである。

 しかしながら,私は一年と少し前,久方ぶりに実家に戻り,家族と過ごしていく中で,その観方は間違っているとの認識を余儀なくされた。少なくとも,私の方が賢い,というステートメントは倨傲に過ぎた。現実の問題への対処の仕方,という意味でもだが(それは私の未熟さによる部分も大きい),それ以上に私を印象づけたのは,大仰な言い方をすれば「運命の受け入れ方」のようなものが,とても柔軟で,かつ彼らの持つ知的物的な広義の資源に即した現実的なものであった。

 

 たとえば,かなり極端な例であるが,既に何度か blog に書いたように私の祖父母の家――それは私の生家でもあり,母の生家でもあった――は六年前に火事で全焼し,祖母は大やけどを負って,数カ月間にわたり入院していた。その後,どうにか祖母は退院し,現在ではつつがなく暮らしている。私はずっと,火事に対して憎悪に近い感情を抱きつづけていた。私たちの想い出を奪った,取り返しのつかないイベントだと,そう認識していた。他方で,母や父は(多少,虚勢じみていたかもしれないが,しかしそれでも)「あの火事がなければ,頑固な祖父母が私たち一家と一緒に住んでくれるはずはなかった」「東日本大震災被災者よりは良い,他の人も被災していたら,到底乗り切れなかっただろう」と,複眼的に,単純な悲劇としてではなく,見ていた。私はかなり長い間,それをある種の『裏切り』のように思っていたが,しかし最近になってようやっと,それは彼らの知恵であると気づいた。火事という,もはやどうしようもない,不可逆的なイベントに対し,それを見つめる自身の視点を変えることで対抗ないしは共存を試みていた。

 これは,やはりひとつの知恵の在り方であると思う。知恵というものを,人間がその生を生ききるための知識ツールであると定義するなら。

 

 思うに,多くの人びとは,当たり前だが『弱い』。それはいろいろな意味に於いてである。学歴,というのがこの場合であるが,場合によって資力の弱小や政治的抑圧など,様々であろう。そして,ジップの法則からして大半の人びとは平均値を下回る≒『弱い』

 しかし,そういった『弱い』人びと,あるいはもう少し穏当な表現としての『庶民』『大衆』(とはいえこの表現も,まるで大衆は大衆として一枚岩であるかのような印象を与え,良くないが)もしくは『普通の人びと』(common people, という表現はカール・ポランニーが用いたものであった)にも,知恵はある。もちろん,彼ら彼女らのうちにも知恵の大小はあるが,それでもやはり大抵の人にはある。また,それらの特徴として顕著なのは「弱いがゆえに敵対者を排除できず,ために(仕方なしにとはいえ)敵対者や障害との共存を図る知恵が発達する」という点だと思う。火事にポジティブな面をも見出す,というのはその一つの発露であろう。また,私のように火事に拘泥していつまでもそれを嘆くより,よほど生産的である。それは実際に,ある意味で想い出を裏切ることであったかもしれないが,しかしそれが「だましだまし進む」ということの意味かもしれない。

 

 同時に,これらの知恵にも限界があるとも感じる。たとえば,「私よりもつらい人がいるから,我慢しよう」という考え方。これ自体は,実際にある程度は人の持つ忍耐の限界を深めるし,また誰かに迷惑をかけるわけでもなく,やはり『普通の人びと』が持つ知恵である。しかし,同時にこれは明らかにブラック企業などが悪用している。謂わば,普通の人びとの知恵は巧妙な悪意には脆弱である。それはカルト宗教の布教手段にも見受けられる。また,大抵の場合にはこうした知恵は『構造化』されていない。謂わば無時間的に配置されているのみで,とくに内省によって知恵を結晶化することはほぼない。レトリカルな言い方をすれば,これはあくまで『知恵』であり,必ずしも『思想』ではないということだ。思想は精神が内省によって,自己を批判的に乗り越える地点で始まる。知恵は知識をツールとして扱うということであり,必ずしも内省は必須ではない。

 

 これら『普通の人びと』が持つ知恵の価値は,なんだろうか。もちろん,応用的に有為である,ということもあるだろう。しかし,多くは生活の実態に即していて(即しすぎていて)容易には他の場面に応用できない。ただ,逆に個別特異的な知恵であるがゆえの意味,というのは考えられないだろうか。すなわち,ある家族,あるいはある村落でしか通用しないがゆえに,反ってその構成員には強い意味を持ちうるような知恵。ネグリとハートの『マルチチュード』概念も,そういった面から読み解くことが可能かもしれない。