ルール・価値判断基準、強者弱者、そして逸脱と可能性
先日、信頼できる友人二人とかなり長時間にわたって話ができる機会を得た。
そこで、「弱さ論」に関して相応の進捗があったため、ここに記しておく。
まとめると、以下のようになる。
- まず、「弱い」ということは何者かと比較して相対的に「弱い」、ということ、つまり強者と弱者は必ず対である(当然ではあるが)
- 更に、強弱を定義するにはもちろん何らかの『ルール』、価値判断基準が必要である。単なる多様性を数値化して、更に数値化したものの大小に価値を付与しなくては、強弱は発生しない。
- 先日から私が考えていた「弱さの意味」とは、この価値判断基準・ルールに関与する。つまり、「価値判断基準は一つしか世界に存在するわけではなく、極めて多様であること」「ルールも、少なくとも可能性としては多様でありうる」ことに気付く契機、それが「弱さの意味」であるという暫定的結論を得た。
第一点目は、たぶん自明であると思われるので多言はしない。
ただ付け加えるならば、「絶対的弱者」と呼べるような存在が仮にあるとして、もし絶対的弱者しか世界に存在しないなら、彼/彼女は「弱者」であろうか? 強弱とはやはり関係性の問題であろう。
第二点目。これも、常識的には当然な思考である。世界内の存在は多様であり、しかしそれだけでは強弱は存在しない。勝敗が強弱に関係するとすれば、勝敗がゲームの結果であり、ルールなくてはゲームが存在しない以上、強弱にはルールが必要条件としてある。
第三点目についてだが、これは議論が分かれるかもしれない。弱くても、謂わば「自らの弱さに『トラップ』されてしまう」ケースは枚挙に暇がない。それは具体的には、自らの弱さないし『弱者性』を盾に、外部との接続を遮断し、変化を拒絶し、自己を世界と時間の外部に置く、置きたがる人間である。こうなると、彼/彼女にとっても周囲にとっても悲劇が待っている。
しかし、幼年期に悲惨な経験を得た人が、後に偉大な芸術家になるように。
あるいは、人生のうち数年にわたり獄舎につながれた活動家が、最後に革命を起こすように。
そして、病と闘い、病と共に生きることを余儀なくされた人間が、自己と世界に関して深い洞察を得られるように。
弱さは契機になる。この契機とは、彼/彼女が敗北を強いられ、弱者であることを強いられた世界が狭いものであり、真の世界はもっとずっと広いことに気付くためのものである。仮に、彼らを「逸脱者(アウトサイダー)」とでも呼ぼう。
人間は、永遠に弱者として生きられるほど「強くない」、少なくとも弱者である自己を直視できない者がほとんどである。
そこで、人間が取れる態度は二つある。
一つは、強弱が関係であることに起因する以上、関係を断ってしまうこと。これが、先に述べた「自らの弱さにトラップされた者」である。
もう一つは、弱さを契機として自らを弱者足らしめる価値判断基準・ルールの外部に逃れることである。「アウトサイダー」はここから生じ、私は、こちらにこそ可能性を感じる。
「世界は多様にして豊穣である」
「価値判断基準も、ルールも一つではないし、また一つである必要もどこにもない」
以上が、今回友人らとの議論で得られた暫定的結論になる。彼らに感謝を。
今後の課題として、(私見では)トラップされている人の方が、アウトサイダーより多いように思える理由を考え、もし実際にそうならどうにかアウトサイダーの割合を多くする方策はないか、を考えたい。