罪と罰と記憶
罪は記憶される。被害者は、生きている限り加害者の罪を忘れないだろうし、忘れることができない(この事実は、教室内のいじめやDVから国際的な歴史認識問題に至るあらゆるレベルで散見される)
我々の世界を、もつれあった被害-加害の関係の連鎖が、World Wide Web よりも濃密に包んでいる。
だが、仮に罪を忘却することでしか相手を許すことができないなら、それは悲劇であろうが、しかしこの二つは分けて考えることが(原理的には)できる。許すということは、被害者が加害者のなした悪事を忘却することと、等価ではない。
悪意は、被害者と加害者の関係を決定的に不可逆に変えてしまうかもしれないし、また往々にしてそうだが、最悪の状態からまた「以前とは違った形での」友好な関係を築ける可能性はある。
ただしそれは、被害者の加害者に対する権力という形態をとってはならない。それは、逆転した被害加害関係を産生するから。
「あなたの罪を忘れない。だが、私はこれ以上あなたを罰することをやめる」
この、(論理的には)矛盾しているはずの言明を可能にするレトリックが、『許す』ことではないか。そんな気がする。
私は許されたいし、許したい。