惑星からの逃走線

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社会シミュレーションと社会思想の『適切な関係』に関する一考察

社会シミュレーションと社会思想の『適切な関係』に関する一考察

 

 人はなぜ、社会シミュレーションを行いたいのだろうか。

 今の社会物理・経済物理やAgent-basedな社会シミュレーション、微分方程式や確率モデルを用いた数理モデルを用いた研究の多くは「社会現象がなぜ・どのようにして・なんのために発生するのかを解明したい」というモチベーションにもとづいているように思われる。つまりは、規範的分析というよりは記述的分析が多くを占めているというのが私の印象である。

 

 だが、これらの記述的分析をドライブするモチベーションは、更に深層の、より根本的なモチベーションにドライブされていないだろうか?

 ある現象を制御するには、その現象を観測し理解する必要がある。

 つまりは、社会に対しても同じことで、社会を知らずばそれを上手く動かすことはできないはずである。そのような、極めて理学部的でなく・むしろ工学部的な動機が、多くの数理的手法を駆使する社会科学者には潜んでいるように思われる。

 

 無論、上記二点は私の単なる印象であり、それを一般化して述べることは許されない。

 しかしながら、仮に――おそらくはそう遠くもない将来――『規範的な社会シミュレーション』を研究者たちが実施する日もくるだろう。

 というより、そうしなければおそらくは社会シミュレーションという小さなディシプリンがその正当性を、社会それ自体に対して示せない。

 最終的には、政策立案者が判断する際の補助的な材料として供されることをも、視野に入れるべきであろう。

 そういうわけで、今後は仮に規範的分析を社会シミュレーションで行う場合を想定し、更にその上で我々社会シミュレーション研究者がどのように社会思想・公共哲学・あるいはイデオロギーといった、極めてバーバルな諸概念諸思想と適切にやっていくべきか、について、本稿では論じたい。

 

 まず指摘すべきなのは、我々はK. Popperの手厳しい批判の対象となった「歴史法則主義=歴史主義」(Historicism)からは可能な限り距離をおくべきだということである。なぜか?

 Popperはその著書『歴史主義の貧困』で、歴史に法則を見出そうとするhistoricismは論理的に成立し得ない、とした(詳細は同書を参照されたい)

 さて、では仮に社会シミュレーションがhistoricismの正当化に使われれば、どうなるだろうか?

 まず間違いなく、歴史法則主義者は社会シミュレーションをかなり長いタイムスパン(数世紀など)の予測に使うであろう。なぜなら、社会シミュレーションで「歴史の必然」のようなものを示し得れば、それは彼らのイデオロギーを正当化する一助にはなりうるからだ。

 無論、そんなことは技術的に極めて困難だが(予言の自己成就・予言の自己破滅等の現象をあげつらうまでもない)、しかし要は箔をつけられれば良いのであって、彼らは躊躇なく結果をでっち上げるであろう。そして、それは科学として社会シミュレーションを推進したいものにとっては、災厄でしかない。Historicismは社会シミュレーションにとってのみならず、社会全体に対して危険な思想と成りうる可能性を胚胎している。

 

 さらに、もう一つ社会シミュレーション研究者にとって忌避すべきと思われる思がある。これといった名前はないが、仮にアイザック・アシモフの『ファウンデーション』シリーズに出てくる偉大な先達(?)であるハリ・セルダンの名前を借りて「セルダン主義」とでもここでは呼称しよう。

 それは、「社会シミュレーションに関する知識を一部の専門家が独占し、政策立案者へのみその知識にもとづいた知見を提供する」という態度である。

 セルダン主義は先のhistoricismにも関連する危険性を秘めている。

 なぜか、それは謂わば人間を二種類に分断する方向性を強く孕んでいるからに他ならない。

 社会シミュレーションそれ自体が、数理生態学や物理学などのアナロジーを基礎としていることからも分かりやすいが、本来がある意味では「人間を人間として見ない」ことで、あるいは少なくとも「人間を自然界において特別視しない」ことで成立する側面がある。人間の文化進化を生物遺伝子の進化のアナロジーとして見たり、あるいは経済物理のように人間を原子として見てはじめて社会シミュレーションそれ自体は成立するようなところがある。

 そして恐るべきは正にその性質上、支配者が被支配者を畜群のように管理する道具としても、一定程度まで社会シミュレーションを使うことが可能であろう。

 なぜ、社会シミュレーションによる『予測』に困難がつきまとうかといえば、それは一重に社会シミュレーションによる予測それ自体が社会を改変するポテンシャルを秘めるがゆえである。逆に言えば、社会シミュレーションの結果を万人が知らなければ予測も可能になる可能性がある。

 この時、果たして独裁者は、社会シミュレーション研究者を強制的に、あるいは研究費などで釣って、彼らをして牧人足らしめる誘惑に打ち勝てるだろうか?

 ネタバレになるが、ファウンデーション・シリーズで、ハリ・セルダンは二つの組織を用意した。片方は銀河帝国崩壊後の銀河社会を復興させるための「第一ファウンデーション」、他方は『心理歴史学』で歴史を影から操る「第二ファウンデーション」である。

 

 さて、ここまでの考察(考察とまで呼べるのか、かなり疑問ではあるが)一応の結論として、社会シミュレーション研究者はhistoricismとセルダン主義の双方は少なくとも避けるべきであることが判明した。

 ではどうすればそれらを避けうるだろうか?

 一つには、社会シミュレーション研究者自身が可能な限り「中立」を保つというものがあるが、これでは先に述べたように社会シミュレーションというディシプリンの有用性を示せないし、そもそも「中立な人間」など社会の中にはいない。

 では何が必要だろう?

 まず、historicismに関しては、そのような思想が十分に反証可能性を有するか、について社会シミュレーション研究者が吟味することである。まず間違いなく反証可能性を有さない、なぜなら歴史法則主義者は単にマルクス主義におけるルイセンコ学説のような、イデオロギーに対する箔付けとしてしか社会シミュレーションを見做さないだろうし、そうするとそもそも「科学的であるか否か」は彼らの関心の範疇外であるから。

 そしてセルダン主義については、より具体的な対策を提示したい。つまり、言うは易しだが、「誰しもに理解可能な単純なモデルの構築」を可能な限り指向すべきである。そのモデルの構造を大半の人が諒解でき、かつその前提や結論を多くの人が検証できるならば、独裁者もしくは独裁者足らんと欲する者がそれを悪用することも難しくなると考えられるためである。その意味で、極端に複雑だったりやたらと高度な数学のモデルも、いくら説明力が高くともそういった面では良くない、とも言える。

 

 長文になったが、今後、社会シミュレーションが発展することを多くの研究者が望むならば、社会シミュレーションと社会それ自体との関わりをより深く考究することは必須であろう。

 この論自体は特に意味あるものではないが、これを契機としてそういった問題意識を持つ人がいらっしゃれば望外の喜びである。