「自分は自分を偉大にしたいから学問をやっているのだろうか」と自問する、院生の『私』
表題のような自問を、最近よく思う。
いや、以前からぼんやりとは思っていたが、直面する勇気はなかった。
たぶん、単に「他人より上の立場でありたい」ならば、普通の就職をして、出世競争に身を投じれば良いだけだ。もちろん、報われるかは分からない。しかし、私の能力であれば、たぶん戦略を間違えなければ上手くいくだろう(留保付きの傲慢という矛盾)
しかし、私はなぜだかそれが嫌だった。やはり、学問は好きだった。
だが、学問というものは本来、自己の承認欲求を満足させるツールでは断じてないはずである。自分のために学問して、偉大な業績を残した人もいるにはいる。しかし、それは学問というより、彼/彼女の自意識を肥大させた結果偶然にも世の中の役に立った、というだけであろう。学問は知の蓄積であり、先哲の功績の上に乗って我々は前より上手くやれるようになるという前提がある以上、私も学問の――ひいては何か価値あるもののために、学問をするべきなのだ。
だが、価値あるものとは何だ。
現代に、あるいは歴史上、価値ある何かなど存在したのだろうか。
ない、と言い切れるニヒリストを、私はむしろ羨望する。彼らは『無価値』という残酷な結論を直視するだけの勇気を持っているからだ。私にそれはない。
では、私は何のために学問をしたいのだろうか。そもそも、学問をしたいのだろうか?
振り返ってみれば、私はたぶん最初の頃(学部1〜2年の時分)には、本当に「己を偉大にするため(より正確には己を偉大だと周囲に誤認させるため)の学問」しか考えていなかった気がする。
その段階の頃は、本当に日々が苦しかったと思う。自己の無能力や、病に対して苛立ったことは一度や二度ではなかった。
しかしながら、徐々にそれは違うことに対する気付きを得ていった。
それは、主に一人の友人との出会いに起因する。
他の人たちが(特に東大生に多い傾向なのだが)コストパフォマンスを重視して、最小限の努力で成果(それは往々にして自己満足的なものも多かった)を得ようとする中で、彼は孤独に考えていた。そして、考え続けていた。
彼は私に「学問とは、己のため(己のためだけ)に行うものではない」ことを諭してくれた。それは、本当に大きな認識として今の私の中にある。
さて、では私は何のために学問をするのだろう。既に、修士課程学生という身である。後戻りすることは、あまり考えていない。
では、なぜ学問をするのか。
あるいは、誰のために?
まだ、答えを発見できていない。
ただ一つ言えるのは、自身のためだけ、ではないこと。それははっきりしている。
あるいは、究極的には私は私のために学問をするのかもしれないが、少なくともその過程で私ではない誰かを、幸福にするものでなくてはならないはずだ。
では、誰かの幸福とは何だろうか。
纏まらない文章になった。しかし、考えなくてはならないし、直視もすべきことだ。