『真面目系クズ』に足りないのは物語では?
私は自他ともに認めるクズである。締切を守らなかったり,敵前逃亡したり,やるべきことを後回しにしたり,まあ意志はあっても体が追いついてこないと言おうか。とにかく,自分でも「使えねーヤツ」だと思う。人によっては『真面目系クズ』という有難い称号を賜ってくれるかもしれない。
では,なんでこんなにクズなのか。クズは治るのか,治せるとすればどういった手段に依ってか。私の内観に基づき,考察を試みたい。といっても,全く内観だけではなく,一部にソーシャルな関係性に関する考察も含む。
まず,私がクズぶりを発揮するときに共通する条件として,「後回しにする」がある。
つまりは,適切な優先順位に基づいて行動していないのである。
更に,根気がない。一定の成果を出すまでに相応の努力を累積すべき場合にも,相応の努力が面倒らしく,たいてい途中で努力の継続を打ち切ってしまう。このため,成果はでずサンクコストが喪失されるだけという結果に終わりがちである。
もうひとつ,重要な点を述べておこう。「複数の決断すべき事態」に直面すると,それによって「分割して対処する」とか「とりあえずの優先順位をつけて上位のものから対処する」といった風な機転がきかない。脳がオーバーフローになるのだ。とくに,これは現代のような情報がただでさえ過多な時代には不適合的だと言わざるを得ない。
こうして見れば,要はやはり『優先順位』の問題に帰着するようだ。後回しにするは当然のこと,同時に根気がないも「この仕事には相応のコストをかけるだけの優先度がある」という価値判断がない。『脳のオーバーフロー』も,最初にある程度の優先順位が決まっていればそれに当てはめて対処できるはず,である。
現代は,かなりの程度『共有の優先順位・価値判断基準』≒世界観(大きな物語)が喪失された時代だと思われる。それは,一言で要約的に述べればポストモダンという手垢のついた表現になろう。
ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))
- 作者: ジャン=フランソワ・リオタール,小林康夫
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 1989/06
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 34回
- この商品を含むブログ (30件) を見る
この状況下で,自身に明確な価値判断基準がある人は独自の物語に従って行動を取ることができる。『意識高い系』への,やや羨望まじりの揶揄は,彼らが彼ら独自の物語をあまりに無邪気に信仰できることへの嫉妬も含んでいよう。
他方で,クズとして一括総称される人間には,価値観・世界観・物語が欠けている気がする。私を含めた彼らの多くは仮想の『物語』に逃避しがちな点は,皮肉的だが。
だが,我々が人間である限り,価値判断基準を全く持たないということはない。それが他者と共有できるものであれ,できないものであれ,我々が生きる指針にはなりうる。問題はそれが言語化もされず,同時に身体的にも会得されていないという点である。
何か,アーキテクチャの水準で,人々の持つ価値判断基準を明晰に言語化し,その最大公約数的な部分を抽出可能にできないだろうか,今密かに思っている。
「物語を共有できるか否か」という社会的なレベルではなく,むしろ「物語を有することができるか否か」「物語を言語化・身体化できるか否か」この段階まで問題を切り詰められれば,何か活路を見出だせそうな気がする。直観だが……。