惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

安保法案関連の議論についての所感

 いい加減,玉虫色的・日和見的態度をとり続け沈黙するのも良くないだろうということで,自分なりの考えを書いてみる。

 といっても,実は「安保に賛成か/反対か」という二分法に答えるものではないので,相変わらず玉虫色なのは間違いない。しかし,個人的に思うところが全くないわけではないので,それについて書いてみたい。

 

 まず,とくに反対派には欠けている視点だが,これは「目的」を問うた議論ではなく,「手段」をこそ問うているそれだということだ。賛成派も反対派も,言うまでもなく戦争を能動的に「起こしたい」と思っているわけではない(賛成派の一部人士にはそういった人もいるかもしれないが,それが多数派を占めているとは到底想定できない)。仮に,反対派が本気でそう思っているなら,明らかな事実誤認であろう。今日日,戦争などほぼ全ての面で非合理な行為であり,おそらく金正恩でさえ「いかに戦争を回避するか」と考えている(たぶん,唯一の例外は戦争を制御できる潜在力が自身にあると考えるアメリカ合衆国の一部だが,それさえダーイシュの件などを見ていると怪しい)

 さて,安保法案というのは要するに米国と同盟を強化し,以て抑止力を高めようという思惑である。他方,これに反対する人はこれが反って露中等の猜疑を煽りかねないことを危惧している。どちらも,論理としては明確だし,可能性の話をするならばどちらもあり得る。

 ここで一つ指摘しておきたいことは,賛成派の視点が短中期的に見て妥当なものであり,同時に反対派のそれは長期的なものだということだ。かつてこの地上に興亡した国家で,リアリスティックな視点を欠如したものは全て淘汰された。同時に,長期的に近隣諸国との安定した関係を築けない国家も,最終的には消えていった。

 そう考えると,「短中期的には隣国に備えつつも,ある時期を見計らいそれらと融和する」という『遠近両用』思考を行える人があまりに少ないのが,今回の議論において決定的に問題である。

 賛成派は,リアリスティックな思考に基づいているように思えるが,実際には当座しのぎといった感は否めない。反対派に至ってはもはや感情論で動いているかにさえ見える(感情論という意味では賛成派の反対派叩きも人後に落ちないけど)

 いちばんヤバそうだな,と思うのは互いに「議論するのが面倒になってきているので,感情のぶつけ合い(とうかダダ漏れ)で決着をつけよう」という姿勢な気がする。

もし世界が百人の村だったら,百人のうち百人が犯罪を犯しています。

 たぶん,小数点以下を四捨五入すれば掲題の通りになると思う(ちゃんと統計とったわけではなく,私の直感だけど)

 こんにち,「他民族に対し犯罪(戦争犯罪・虐殺・民族浄化など)を働いたことがない民族」などというのはごく一部の狩猟採集民ぐらいのものであろう。

 日本人も,中国人も,インド人もアフリカ人も。欧米人は,まあ言うまでもないというか。もちろん,その犯罪の濃淡に差はあるが。

 こういう状況下で,たとえば(たとえばである)「中国人はチベットで散々狼藉をしたから,南京大虐殺について何かを言う資格はない!」と息巻いても,全く生産的ではない。仮にこの論理が通るなら,互いの被害者意識(それは厳として存在するのである)に蓋を被せ,それが暴発する日を少しだけ延長するに過ぎないであろう。そして,そのような状況は確実に諸国間諸民族間の精神的亀裂を深めるだろう。我々に必要な存在は,忘却と風化ではなく,想起に基づいた裁定であろう。しかし,誰が裁定者たりうるのか? 誰もが誰かを傷つけている,そんな状況で,一体和解と,仮初であっても平和を基礎付けることができるのは,一体誰であろうか。しかも,百人の村人には必ずしも共通した規範意識はないのだ。

 また,同時に以下の点を指摘しておこう。

  • 自分の方から一方的に非を認めても,その国は一方的に損をする可能性が高い。
  • 他方,互いに全く非を認めなければ互いの亀裂は深まる。
  • しかし,互いに非を認め合うと(というより,非を認める国が多ければ),相互の歩み寄りも期待できて全体としては望ましい。

 うーん,これは古典的な Public Goods Game で定式化できそうな気がする。あるいは,空間構造を持つ場合の Prisoner's Dilemma に近いかもしれない。仮にそれらで定式化できても,そこからどう和解に繋げるかは,難しいが……。

自分の頭の中に「他人エミュレータ」を入れておく?

 他者の人格をエミュレートする,ということについて,蛇足ながらもう少々述べたい。

 

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 この「他者の人格をエミュレートする」という行為には,いくつかのタプルがあるように思える。

  • 相手の価値観または世界観(世界を優先度に基づき序列化したもの)を知っている必要がある。
  • 相手がその価値観にどの程度,明確にかつ意識的に従っているかについての知識。相手の行動がどの程度ランダムでどの程度意識的かを知っている,ともい言い換えられる。
  • 相手の知っていることが何かを知っている。もちろん,十全にそれを知ることはできないが,しかし知らないなら知らないである程度それを類推できる必要がある。あるいは十分に広い知識を身につける(大変だが)

 原理的には(『原理的には』である)これらを知っていれば,本人より思考速度は遅いかもしれないが,おおよその相手の思考をエミュレート可能なはずである。

 他者の思考をエミュレートできれば,当然ながら困難な状況下でも(ある程度の時間的余裕があれば)『内なる他者』にアドバイスをもらえるし,また相手へ共感するのもそれなりに可能となろう。

「成熟した人格」とは

 こういうウェブページがあった。

自己実現、人間的成長・成熟1〜オルポートの成熟した人格の特徴|オリンピック選手、メジャーリーガーが学んだ メンタルコーチ 立命館大学大学院教授 高橋慶治のブログ

 列挙されていた「成熟した人格」の特徴は,以下の通り:

  • 自己意識の拡大
  • 他人との温かい繋がり
  • 情緒的安定
  • 自己客観視能力
  • 現実知覚
  • 統一的な哲学

 これらのうち,三つには共通の資質が要求されると思った。

「他者の人格を自己のうちにエミュレートする能力」である。

 

 まず,自己意識拡大であるが,要は他人の利害に共感する能力である。これは,相手の欲求が何かを理解した上でそれに基づいて相手の感情を類推する必要があり,それはある意味で他人の人格をエミュレートしているとは看做せないだろうか。

 次に,他人との繋がりだが,これも相手の欲求・情動・行動を類推することが求められる。

 更に,自己客観視だが要は「様々な立場にある他者から見た自分像」を想定する作業であり,これにも他者の人格をエミュレートする能力が要求されるのではないだろうか。

無題

 刹那なる人間の生

 悠遠たるその連鎖

 ときに問う,「我ら何処より来たりて,何処に行くや」

 ただ,深淵の裡に虚しく木霊し,減衰す

 而して深淵は我を魅了せり

 奈落に投身すれば,我もまた既にその一部

「虚学」という虚像

 実学でない,と批判されがちな学問にはひとつ共通点がある。

 それはその価値をある種のトートロジーに求めている点である。

 具体的には,西洋古典学が「西洋古典学を学ぶと古代人の馥郁たる精神の香りに触れることができる,ゆえに西洋古典学は有益である」と主張するが,実際に「古代人の馥郁たる精神」に触れて効用が高まるのは,彼/彼女が西洋古典学的な文化伝統に浸かっていなければまず考えられない事象であることだ(なお,西洋古典学があくまで一例であり,西洋古典学を特にあげつらっているわけではないことを注記しておく)

 ここに「ある学問が有益なのは,そもそも学徒の周辺にその学問の成果をある種の間主観性として身に付けている(≒教養)人々が他に存在する」場合という,トートロジカルな状況が発生する。

 

……と,これだけ書けば単なる「人文系諸学不要論」で落ち着きそうだが,もう少し論を進めてみよう。

 では,翻って世に『実学』とされることが多い学問,それも経済学・経営学等を,まずは考えてみたい。

 なぜ,これらは実学とされやすいのか? 身も蓋もない言い方をすれば,「お金が稼げる可能性が高いから」であろう。他に理由はなさそうだ。「自然物を外から調べるのは実学では」というご指摘をいただいた。たしかにそういう定義もある。一応,ここでは通俗的な定義での『実学』ということにしておく。

 しかし,である。そもそもお金というモノ自体が,まず間主観性の産物ではなかったか?

 紛うことなく,お金はお金と認められるが故にお金である(間主観性)。そうでなければ,誰が紙切れと(あるいはビット列と)土地や食糧やらを交換したりするだろうか。

 この意味において,構図は上記の西洋古典学と,どれだけ違うのだろうか。私は些か心もとない。

 

西洋古典学:古典の伝統がある文化→古典を学ぶ→古典による効用がある

経済学:お金の文化→お金に関して学ぶ→お金による効用がある

 

 もっといえば,これはおそらく「金が儲からない学問が虚学」という批判全般に当てはまる。所詮,お金も間主観性の一つにすぎないからだ。

 そもそも,「役に立つ学問」否,「役に立つ知識」全般が強くコンテキストに依存する以上,「実学vs虚学」という軸は軸たりえない気がする。

『真面目系クズ』に足りないのは物語では?

 私は自他ともに認めるクズである。締切を守らなかったり,敵前逃亡したり,やるべきことを後回しにしたり,まあ意志はあっても体が追いついてこないと言おうか。とにかく,自分でも「使えねーヤツ」だと思う。人によっては『真面目系クズ』という有難い称号を賜ってくれるかもしれない。

 では,なんでこんなにクズなのか。クズは治るのか,治せるとすればどういった手段に依ってか。私の内観に基づき,考察を試みたい。といっても,全く内観だけではなく,一部にソーシャルな関係性に関する考察も含む。

 

 まず,私がクズぶりを発揮するときに共通する条件として,「後回しにする」がある。

 つまりは,適切な優先順位に基づいて行動していないのである。

 

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  更に,根気がない。一定の成果を出すまでに相応の努力を累積すべき場合にも,相応の努力が面倒らしく,たいてい途中で努力の継続を打ち切ってしまう。このため,成果はでずサンクコストが喪失されるだけという結果に終わりがちである。

 

 もうひとつ,重要な点を述べておこう。「複数の決断すべき事態」に直面すると,それによって「分割して対処する」とか「とりあえずの優先順位をつけて上位のものから対処する」といった風な機転がきかない。脳がオーバーフローになるのだ。とくに,これは現代のような情報がただでさえ過多な時代には不適合的だと言わざるを得ない。

 

 こうして見れば,要はやはり『優先順位』の問題に帰着するようだ。後回しにするは当然のこと,同時に根気がないも「この仕事には相応のコストをかけるだけの優先度がある」という価値判断がない。『脳のオーバーフロー』も,最初にある程度の優先順位が決まっていればそれに当てはめて対処できるはず,である。

 

 現代は,かなりの程度『共有の優先順位・価値判断基準』≒世界観(大きな物語)が喪失された時代だと思われる。それは,一言で要約的に述べればポストモダンという手垢のついた表現になろう。

 

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

 

 

 この状況下で,自身に明確な価値判断基準がある人は独自の物語に従って行動を取ることができる。『意識高い系』への,やや羨望まじりの揶揄は,彼らが彼ら独自の物語をあまりに無邪気に信仰できることへの嫉妬も含んでいよう。

 他方で,クズとして一括総称される人間には,価値観・世界観・物語が欠けている気がする。私を含めた彼らの多くは仮想の『物語』に逃避しがちな点は,皮肉的だが。

 

 だが,我々が人間である限り,価値判断基準を全く持たないということはない。それが他者と共有できるものであれ,できないものであれ,我々が生きる指針にはなりうる。問題はそれが言語化もされず,同時に身体的にも会得されていないという点である。

 何か,アーキテクチャの水準で,人々の持つ価値判断基準を明晰に言語化し,その最大公約数的な部分を抽出可能にできないだろうか,今密かに思っている。

「物語を共有できるか否か」という社会的なレベルではなく,むしろ「物語を有することができるか否か」「物語を言語化・身体化できるか否か」この段階まで問題を切り詰められれば,何か活路を見出だせそうな気がする。直観だが……。