自己の肥大した人、他者の肥大した人、環境の肥大した人
この話はほぼ、ある人からの受け売りである。その人は尊敬でき、かつ信頼できる私にとって貴重な人である、とだけ紹介しよう。
昨日の記事が、この記事の前提である。
この自己-他者-環境という言葉自体は私が当てはめたものだが、考え方はその方がラカンから学んだものだ。
ラカン自身は S1, S2, S3 という用語を使っているらしい。
さて、その方は同時に「これら三者間のバランス・均衡が人格にとっては重要である」との旨を強調した。
なぜ、均衡が重要なのか?
私なりの考えを述べる。
まず、自己が肥大した人間というものを考えてみよう。彼/彼女は当然のことながら極度にエゴイスティックな人間になるだろう。
彼/彼女に能力がなければただただフラストレーションを蓄積するだけの一生となろうし、逆に能力があれば自己の欲求するところを、他者を踏みにじっても実現しようと図る。こういった人間が幸福かと言われれば、かなり多くの人が疑問符を付けるだろう。
次に、他者が肥大した人間。
彼/彼女はただ他人に認めてもらうことを欲する。自己の存立基盤が完全に他者にあるので、彼らは振り回され、消耗する。多くの「メンヘラ」などと言われてしまう人は、この類型に入るのかもしれない。「自己が他者からどう見えるか」が第一義的。
最後に、環境が肥大した人間。
彼らは他者が肥大した人間と違うのは、たとえば第三者からのレピュテーションなどに対して極度に敏感な点である。彼らは、自己-他者の二項関係の中に生きる「他者が肥大した人間」と違い、「環境」を持つが、これも結局環境に自己の存立基盤を置いているので、実は他者が肥大した人間とそれほど違わない。彼らは「自分と他者の関係が第三者にどう見えるか」が第一義的なのだ。「意識高い系」は多くこれである。
さて、では均衡がとれている状態はどんな状態だろうか。
まず、彼らはエゴイスティックではない。他者の存在は認めているので、彼らを踏みにじったりは、普通しないだろう。
また、環境の存在も認めている。故に、外部からの入力を元に成長し、自己の革新を図れる。
そして最も重要なのは自己が「適度に」あるので、多少のことでは揺らがないものと思われる。これは環境と他者を認識する出発点でもある。
このモデルの興味深い部分は、ある種の「三すくみ」が見られる点にもある。
環境の欠落した人間は、他者が異常に肥大化する傾向があるように思える。
他者の欠落した人間は自己が肥大化する。
自己の欠落した人間は、微妙なところではあるが、環境が肥大するように思える。ただこの場合は環境と他者が渾然一体となるかもしれない。
人間にはこのバランスを保つためのホメオスタシスが生来的にあると思われる。
しかし、何らかの要因でそれが崩れたのが、「エゴイスト」「メンヘラ」「意識高い系」であると考えることもできる。まるで別に思える病理が、実は統一的に理解できる可能性があるのだ。
さて、では我々がそういった病理に陥らないで、均衡を保つにはどうすれば良いのだろう。
正直にいえば、わからない。だが、一つ言えるのは意識して均衡を保つというのは骨が折れる、ということだ。
均衡が自然に保たれるような、そんな仕組みを見出だせればベストであろう。
たぶん、自己は常に出発点である。自己を強く持ちすぎればそれはエゴイストだが、しかし自己がなくては他人の内面を推し量ることもできない。
まず、自己を見て、自己を手に入れる。
次に、他者への想像力が重要であろう。他人が自分と、同じように喜んだり悲しんだりする存在であることを想像すること。
そして、環境から学ぶこと。
そんなようなことが、均衡を自然と保ってくれるのでは、と期待している。
付記:
ちなみにラカンからの独創として、これを教示してくださった方は"S4"という存在を仮定していた。S4とは宗教や神といった存在であり、たしかに神は自己でも他者でも環境でもないことを考えると頷ける。
このモデルはかなりの応用可能性を持つものと思われるので、引き続き考える材料としたい。
付記2:
他者と環境の差異だが、仮に「自己と相同である非自己」を『他者』と、「自己と相同でない非自己」を『環境』とした。逆にいえば、自己が欠落している人間から見て環境と他者が渾然一体となるのは環境と他者を識別するための自己の不在ゆえ、かもしれない。
付記3:
再度、環境と他者の差異について。
「自己との異同」は少し語弊があったかもしれない。実際には、第三者なども環境の範疇であると考えられる。第三者とは「対話できない」(対話をした途端、第三者から「あなた」という他者に化する)ことを考えると、謂わば「対話しているか否か」がクリティカルであるかもしれない。