「論理的であること」「真実であること」の『意味』とは
時として、真実は人を傷つける。
時として、論理的な人間は不幸である。
いや、ただ単に「時として」ということならば良い。
しかし、実際には論理が、真実が人を絶望せしめる。
では、真実を求める学徒は、或いは論理の考究者は、どのようにして自身の存在を正当化できるだろうか。私を含めた(私は自己を学者とまでは言えずとも、学徒であるとは思っている)学究者は、徒に言語論的転回やらポストモダンやら原発やら化学兵器やらで、無辜の民に害を為してきただけだろうか。
言葉や論理は、所詮人間には過ぎた玩具だったのか。
もし「否」とはっきり言えたならば、まさしく論理は役立つことが証明される。
しかし、まさしく論理によって、その証明は否定される。我々の眼前の世界がその証左である。
しかし、それでも考えることは『やめたくない』
おそらく、それはエデンの東から追放された人間が、というような下手なレトリックからくる感情ではなく、単に論理しか我々にとって共通な『納得可能性』が存在しないからである。或いは、共通に納得可能な形式を論理と呼ぶのだが。
論理は希望というには、あまりに弱々しい。
だが。思考と論理に価値を見出だせねば、他に路はない。
などという話。