惑星からの逃走線

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歴史に関心を抱く社会とそうでない社会

 蔀勇造「歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり」は日本語で書かれた手頃な価格の本としては珍しい史学史をテーマとしたものである。

 

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

 

 

 この本では、歴史意識、即ち現在までに発生した出来事を後世に伝達しようとする意図は、必ずしも普遍的ではないと主張されている。

 たとえば、歴史という学問が古代から連綿と続くのはせいぜいメソポタミア・エジプト、中国とヨーロッパ(なかんずくギリシャ)、ユダヤキリスト教的伝統を持つ社会、そしてこれら地域に直接的影響を受けた諸民族程度で、インドなどは少なくとも我々が歴史だと思うような歴史はイスラームの強い影響下におかれるまで書かれてこなかったという。サーサーン朝期のイランについても、同じようなことが言える。

 では、なぜこのような差異が生じたのだろうか。

 単に文字の有無だけではない、と蔀は言う。

 まず、人間には「巡る時」の感覚と「流れゆく時」の感覚がそれぞれ、かなり普遍的に備わっていることを蔀は指摘する。前者は果てのない繰り返しであるのに対し、後者は繰り返さない不可逆的な時の流れである。

 この上で、特に後者の時間感覚が備わっていることが歴史を成り立たせるために必須であるが、それは決して先に述べたインドなどにもなかったわけではない、という。

 つまり、他に条件が要るということだ。それは何か。

 通常指摘されるのは、インド文明や無文字社会に特有な次のような態度である。

ある深度以上の過去は、一挙に日常的な時間意識とは別の原理にもとづく観念体系に飛んでしまうのである。 (前掲書、17頁)

  いわば、ある一定以上の過去は宇宙論の一部として処理され、実証的な考察の対象にはならない、ということである。

 個人的には、この本を読んだ時はかなり目からウロコであり、特に社会シミュレーションとの関連でいうと私が目下関心を抱く「後代に情報伝達する社会とそうでない社会の差異」といった視点を得たのはこの本からであった。

 他にも歴史意識が強い社会についても相当な紙幅が割かれており(というかそちら主だった内容)、大変な良書であると思う。