人文科学的手法と自然科学的手法
この記事のタイトルに与えた、「人文科学的手法」と「自然科学的手法」なる言葉であるが、前者は所謂哲学であるとか、歴史学であるとか、そういった文学部において普通行われる「人間の持つ共感能力に基いて人間を理解しようとするアプローチ」のこと。後者は、数式などを使うアプローチである。非常に大雑把な定義だが(なので、経済学などは自然科学的手法に含めたい)。
さて、人文科学の歩みは自然科学のそれに比べて遅い、という意見が存在する。たしかに、文学で20世紀の相対性理論や量子力学に匹敵するような進捗があったようには(一見して)見えない。
だが、これに対してかなり有力な反論がある。「実は自然科学の方が遅れていて、自然科学で進捗があるように思えるのは単に遅れていた分キャッチアップしているだけである」というものだ。
より詳細に述べると、要は我々に人間にとって最も身近な存在は当然、人間自身である。なので自然科学的手法が発達する何千年(ことによれば何万年)も以前から、人間に対する観察手法、「人間の学」は発達していた。よって我々は人間についてかなりのことを知っている。人文科学にあまり進捗が見られないのは、既にこれが「枯れた」「安定した」学問であるから、という。
一方で自然科学では大いに進捗が見られる。これは、自然科学が本質的に優れているというより、単に我々の自然に対する無知を反映しているのみである、という、これはかなり有力な反論である。
たしかに、自己の内観や他者への共感は、人間を理解する上でかなり強力な手法といえる。それを我々は少なく見積もっても数千年は磨き続けてきた訳で、たしかに今更新たな発見はなさそうである。
ただ、一方で科学に限らず学問一般は相互に影響を与えつつ進展するものだろうから、自然科学の影響を受けて人文科学が発達することがあっても良い。私自身はそのようなスタンスで研究に臨みたいと思っている。
もちろん、自然科学も人文科学から影響を受けても良い。ただ、自然科学→人文科学の場合はかなり意識的に影響を受けている(妙な言い回しだが)のに対し、人文科学→自然科学の場合はほとんど無意識に影響を受けていることが多いのは、少々興味深くもある。