惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

史実vs史観:あるいは『無限ループ』から脱出して明日を迎えるには

 丸山眞男がアツい(俺の中で)

 なぜアツいかというと,彼の『史観』のようなもの(私の読んだ限りでは,直接にそういった言葉を丸山は使っていないが)が,私にとって新鮮かつ自分の中の模糊としたものを明晰的に言語化してくれていたからだと思う。

 彼の日本政治思想に関する観点で,私が理解するところでは,「日本では歴史が蓄積されない(されにくい)ので,ために外来思想に対して同じような反応を繰り返している」というものがある。曰く,戦国期のキリスト教到来時と同じ構図が,明治大正期にも反復されたという。

 

 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

 

 

 謂わば,本邦は昔より椹木野衣が言う「悪い場所」(歴史的蓄積のない文化)であったのだ。もっとキャッチーに言えば,我々日本人は『無限ループ』としての歴史を生きている。あるいは,昔から日本はポストモダンだった。コジェーヴの観察のように。

 

 

日本・現代・美術

日本・現代・美術

 

 

 

 ここで私が思い起こしたのは,蔀勇造『歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』にあった,「『歴史』という文化を持つ民族と持たない民族」の別である。前者の代表は,ギリシャ・ローマといったヨーロッパ文明や,イスラーム,中華文明圏であると論じている。また,後者に関してはインドがある。

 インドというと悠久の歴史を誇ると思われがちだし,また実際にインダス文明などは世界最古級であるが,しかしイスラーム文化に影響されるまで,インドは「神話」の豊穣を誇っても「歴史」「史書」の類は散見されず,一定以上の深度を持つ過去は一息に神話世界に飛んでしまうという。言ってみれば,歴史というのは『文化』であって,必ずしも全人類に共通した生得的性質ではないのだ。

 

 

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

 

 

 

 とはいえ,過去に対する何らかのメンタルモデルを有さない文化というのは,考えにくい。これに関して,かつて保苅実は卓越した慧眼を示した。彼は『歴史』というものを「文字に書かれた歴史」に限定せず,「過去に関するメンタルモデル」として定義しなおし,その上で「歴史を有さぬ民という概念は放棄されるべきである」と明確に述べた。

 

 

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

 

 

 もちろん,我々日本人にも,「過去のメンタルモデル」という意味での歴史(≒史観)はある。ところで丸山に立ち戻れば,彼は日本人のメンタルモデルの弊として,「既成事実への屈従」がある。彼は,(私の解釈では)日本人は過去≒既成事実を動かしがたいものとして見,またそれに意識的・能動的に働きかける傾向に乏しいと主張している。これは日本人の『史観』が歴史を人間の制作物としてよりある種の自然・運命として見ていることを示す。これの問題点は,一定以上の過去は完全に動かしがたく,また修正も効かないものとして看做すことだ。故に,人間はまだ比較的,事態が修正可能なレベルでの過去に囚われ,必然に近視眼的となってしまう。従ってこれ故に日本人は「歴史を蓄積できない」(というのが私の解釈である),同時に歴史蓄積がないので,歴史はいきあたりばったりな偶然の集積となり,より人間の諸力が及ばぬと看做されてしまう。

 

 過去の蓄積がないことと,既成事実への屈従は表裏を成す。

 さて,では過去を蓄積して,長期的視点を得るにはどうすれば良いだろうか? 要は,日本人の過去に関するメンタルモデルたる史観を改革するにはどういった方策が考えられるか?

 今,我々は端的に言って「記録としての過去」を(他の先進国や大国を構成する民族ほどには)活用していない傾向がある。必要なのは,陳腐な言い方をすれば「過去に向き合う」こと,そしてそれ以上に「過去と徹底的に対決してそれを超克すること」であろう。同時に,我々の現代は後続世代の昨日である以上,アーカイブなどの記録保存に心を砕く必要もある。そういった方途が,長期的には「無限ループ」を終わらせ,真の意味での明日を迎えるのに必要とされよう。