権力はイノベーションを歓迎しない
イノベーションは万人にとって良いものだろうか?
ほとんどの人にとって、ある種のイノベーションはとてもありがたいものである。特に、我々の生活の質を向上させるようなものは人々に大きく歓迎される。
これは当然であるが、ではイノベーションを歓迎しない人なんているのだろうか。
一つ考えられるのは「権力者」である。特に権力者といっても権力を持つことそれ自体が自己目的化しているようなタイプの者は、その傾向が強いと予想される。
なぜか。まず、自身の相対的な優位性が脅かされるのを恐れる。要は、今は自分が絶対的権力を握っているけど、イノベーションが起きれば他の連中が情報にアクセスしやすくなったり(たとえば)してその権力が危機に瀕するかもしれない。そういった恐れは確実にあると思われる。
たとえば、これはヨーロッパ外の諸国は産業革命を起こせなかった理由の一つとも考えられる。権力者はイノベーションに対するインセンティブを与えなかったどころか、場合にはよるが時として新技術の流入を規制しようとさえした。
ただしこれは、現代においては国家などの集団が末期的な症状を呈した場合に見られるものだろう。それなりに健全な国家ならば、こういった危惧を抱くことは控えめに言っても少ないのではないかと類推される。
では、十分に「健全な」権力者だったならばイノベーションを恐れないだろうか。
全くないとはいえない。これは、国家というものを設計/デザインされたシステムとして考えてみると分かるのだが、要は国家の基礎的な部分は建国時なり革命時なりにデザインされるわけである。
設計者は当然、彼/彼女の知を振り絞り、その体制ができるだけ長く続くように設計する。しかし、当然人間の作るものであるから限界がある。
どこで限界を露呈することが多いかといえば、イノベーションが起きた時なのである。
要は科学技術の進展などは(カール・ポパーが看破したように)原理的に予測不可能である。そこで、全く国家の設計時には思いつかなかったような新技術が発明されると、国家としてはかなりの苦境に立たされることがある。
例を挙げる。かつて、中央ユーラシアの騎馬遊牧民族はほとんど敵無しであった。事実、巨大な帝国を作り上げさえした。
しかし、それも火器の発達とともに終わる。これは大元国やジューンガルの汗にはあずかり知らぬところであった。
そして、その騎馬遊牧民族の繁栄も主に鐙(あぶみ)の発明によるところが大きい。そして、鐙の発明により騎兵が誕生したことで、フン族はヨーロッパに侵入し、ローマ帝国崩壊の一因ともなっている。
このように、イノベーションは決して健全な権力者にとっても常に望ましいわけではない。むしろ、国家の繁栄を願うとある種のイノベーションに関しては排斥する可能性も十分ありうる。
ただ、最近のイノベーションは多くがビッグサイエンスの中から生まれている。また、最もイノベーティブと目されるアメリカにはマンハッタン計画などの経験もあり、「イノベーションを制御する」という思想があるようにも見受けられる。
では、このアメリカ流の(より正確にはアメリカ政府流の)「イノベーションの制御」は上手くいくだろうか?
原理的にはポパーの言ったような形で、いつ・どこでどんな発明が起きるかを予測することはできない。究極的には不可能だろう。
とはいえ、現代においてはイノベーティブでない国家もまた滅ぶ運命にある。権力者は、この悩ましいジレンマの中にある……と、私は目している。