惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

時間の使い方が下手

 愚痴などを書いてみる。

 そもそも,時間の使い方が少々酷すぎはしまいか。

 一日の1/3以上を寝て過ごしているのは,まあ生理現象だから仕方ないにせよ,作業と作業のインターバルが長すぎるし,だいたい本当に意味のある作業をしているかも怪しい。

 もう少し一日のスケジュールを見直そう。

  • 実家なので午前6時には起きているが,その後結構ぼーっとしている。せっかく集中力のある午前中をこのような形で過ごすのは勿体無い。学校にでかけるまでの2時間を,プログラミング言語,とくに Scala か数学の学習に当てよう。月・水・金は Scala に,火・木は数学とでもするか。
  • 私の家から学校まで,たっぷり1時間半はかかる。これを使わない手はない。行きは英語の学習に,帰りは読書時間に当てることとする。
  • 学校にいる間は,基本的に研究しかしないこととしよう。具体的には,修論のためのモデルづくりと,論文読み。あとは授業・ゼミの準備。モデルづくりは午前中に,ゼミと授業の準備は午後にやるように心がける。
  • 家に帰ってからは,文章を書く時間にする。Blog 更新か,修論の執筆にあてよう。
  • 土日のうち,土曜日はまるまる当面の目標であるゲーム制作に充当する。日曜日は休む。

 無論,これがそのまま上手くいくとも思えないので,必要に応じて修正しよう。

 ただし,適当に変えたので元の木阿弥なので,仮に時間が足りなくなったら「授業・ゼミの準備」を家に帰ってからやることとする。目下の優先順位は,

  1. モデルづくり
  2. 英語
  3. Scala
  4. 数学
  5. 読書
  6. 授業・ゼミ準備
  7. Blog
  8. ゲーム制作

である。どうにか時間の割り振りが上手くいくと良いのだが……。

『本質的なアナロジー』と『表面的なメタファー』;あるいは,なんで予測できないモデルを作るのか。

 社会をシミュレートして理解しようという発想は,言うまでもなく「アナロジー」という思考の一形式に基づいたものである。例をとって説明すれば,ロトカ=ヴォルテラ方程式で,x, y は各々捕食-被食関係にある生物種のポピュレーションを表示したものだが,無論これはかなりの捨象を行った結果であり,現実の生物群集をより直截に表現した Agent-based modeling 等とは一線を画すものである。しかし,ロトカ=ヴォルテラ方程式にしせよ SIR model にせよ,それがかなりの予測力を持つことは,経験的に確かめられている。

 他方で,このような思い切った捨象化はときに歪な結末をももたらす。

 とくに社会統計などで,単純な相関をもとに政策提言などが行われると,とくに悲惨である。具体的な例示としては,このBlog記事 人生の混沌: 見えない因果関係と不都合な人間 が詳しい。

 さて,では適切なモデリングに基づいた予測力のある『アナロジー』(類推)と単に表面的に似ているだけの『メタファー』(比喩)の差は那辺にあるのだろうか?

 なお,アナロジーとメタファーは,単にここで便宜的に呼び分ける呼称として採用したにすぎない。一般的な語法ではないので,注意されたし。

 

 極論すれば,この差は「事後的にしか見分けることはできず,予測力を持つのがアナロジーで持たないのがメタファーである」という,ややペシミスティックかつトートロジカルな結論を先に述べたい。

 さて,ではなぜそのように私は考えたのか?

 まず,予測力のあるモデルを組み立てるには,当然だがモデル対象となる事象を十全に理解している必要がある。謂わば,その系を記述するのに必要十分な変数と変数間関係を全てピックアップできているという条件が必要だ。しかし,「十全に理解している」とはどういうことだろうか?

 まず,モデル対象の文字通り『すべて』を理解することはかなわない,という事実を認めるべきだと思う。なぜ全てを理解できないか? 単に,次元(変数の個数)があまりに膨大であるからだ。水素原子一個というごく単純な系ならいざ知らず(それでも物理学者は相当に手こずったと思うが),それが生命や社会といった系になってみよ。否,ありふれた磁石(のパーコレーション)でさえ,未だに統計力学では尽きせぬ探求の対象たる有り様だ。

 この状況下で,「私は当該の系を十全に理解した」と主張することがいかに難しいか。

 そういった中でシミュレーション・モデルを組んだとして,それが予測力を持つか否かは,実地に予測することでしか立証しえない。

 そもそも,シミュレーション・モデルはある事象に対する我々のメンタルモデルを明示化したものであると考えることができる。我々の精神のどこかにあるモデルである以上,それが現実世界と必然性を以てカップリングしていると考えるのは,いささか楽観的にすぎるというものである。

 以上の理由から,上記の結論を得られる。

 では,事前に予測力の有無を判別できないとすれば,なぜ我々はシミュレートし/シミュレーション・モデルを組むのか。

 私なりの答えを用意するならば,「構成論的手法」を挙げる。

 つまり,シミュレーションは予測を目的とした『手法』ではなく,むしろシミュレーション自体が『目的』であり,シミュレーション・モデルを構成することで,我々は当該の系についての知見を深めうる,ということである。もう少し具体的な話をすれば,ここに一人の旧石器時代人がいるとしよう。彼は,石器作りを学びたいと思っている。さて,運良く師匠にあたる人も見つけられた。彼が石器を作るスキルを学ぶにあたり,効率的な方法はどちらか?

1. ひたすら,師匠から石器を作る方法を口伝で教わる。
2.ひたすら,自分で石器を作って師匠に出来を見てもらい,その評価をフィードバックする

 まあ,他にも方法はあるし,極端化した状況だが,そういうことである。

 私が何かモデリングをして,それが「必ず予測力を持つ」と保証することはできない。しかし,そのモデルで予測を行い,それと現実との差異を埋めるように「モデルの方を(重要)」改良していけば,やがて私の系に対する理解は深まる。

 

 この記事は,私の普段から思うところであった,「社会シミュレーションの予測力の低さ」への自分なりの解答であり,また「良いモデルとはなにか」についての管見である。

 なお,アナロジーとメタファーの区別は相当に曖昧なものである点についても,最後に留意を促しておく。

丸山眞男vs数理モデル化:あるいは凡人が概念を操作する可能性について

 バーバルな研究で,かつ「論理を追いやすい」著者というのは貴重だ。そして丸山眞男はそうである。

 彼自身の,相当に複雑かつ慎重で,そして膨大な思惟は一見して近寄りたくあるが,しかし実際には「論理を追う」こと自体はこの選集『丸山眞男セレクション』の論考に限っては,そんなに難しくない。たぶん,編者の腕と丸山自身の(異常なほどに高度な)文章力が相俟ったものであろう。

 ところで本来,バーバルな研究に対して数理社会学が持つ利点というのはバーバルリサーチでは必ずしも概念に操作可能性がないとか,あるいは容易に追検証できないとか,に対して数理モデルならばそれができる,という点に求められるのだが,こと丸山に関してはそういった主張も霞む。それは,たとえば「超国家主義の論理と心理」における,コンテンポラリーに日本人は天皇を中心とする同心円状に配置され,天皇からの距離に応じて価値づけされると同時に,天皇自身は神話に淵源する皇統に束縛され,結果として誰一人も「自由な主体」足り得ないことを,同心円中心を貫く皇統という一本の軸に仮託するなどの表現からも,彼の想像力豊かな・同時に的確な表現力を垣間見れる。

 問題は,我々のような数理社会学徒にとって,このような鋭い嗅覚と適切な論理構成は,はっきり言えば脅威的であるという点だ。数理モデルを使う要を,丸山が感じるとは考え難い。

 ひとつ弁明を試みれば,数理モデルというのをある種の『インターフェース』として捉え,それによって高い操作性を与えれば,丸山ほどの才に恵まれぬ者にもある程度(「ある程度」!)は社会に関する思弁を発展させられる可能性は,数理モデルに歩があるかもしれないことだ。

 丸山の優れた諸論考は,もちろん上記のように論理を追うことは可能だし,必ずしも難しくないが,しかし実際にこれを組み立てることは至難といった印象も受けるのだ。

 その点,数理モデルならば,原理的には多少の数学やプログラミングができる者には皆に開かれている(もちろん,それだって相当に少数にしか『開かれて』いないが)。その点をもっとプッシュしていく必要があるかもしれない。

 

追記:

 

UNESCOの "General History of Africa" はスゴい

 というわけで、たぶん日本でどれだけ需要があるかわからないような情報を、気まぐれに上げてみよう。

 今回紹介するのは掲題の通り、ユネスコが出版している『アフリカの歴史』の英語版である。驚くべきことに、多少古いとはいえかなりの水準のアフリカ史総説がインターネット上に無料で公開されている!

Volumes | United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization

 なお、一巻ごとに500頁超とかで、ダウンロードには多少時間がかかる(私がやったときは5分程度)

 興味のある人はDLしてパラ見してみよう。

Haskell に手を染める;社会シミュレーション関連の視点から雑感

 文系とも理系ともつかぬ中途半端な分際で、あろうことか haskell に手を出してしまった。

 で、haskell の(入門の)*1023+入門をした身として、多少気になった点をいくつか。個人的には社会シミュレーション関連とも絡めて書きたい。

 

・副作用と参照透過性

 副作用とは、コンピュータに内部状態があり、それが時間等により変化し、ためにファンクションなどの結果が一意でなくなること(と理解している)、他方の参照透過性は内部状態を持たず、関数の結果は引数さえ同じなら必ず一意に決定される(と理解している、たぶん)。さて、一見して社会シミュレーションのような用途に供するとき、あきらかに副作用があった方が現実に即しているように思われる。人間には(もっといえば生物一般には)、明らかにかなり複雑な内部状態があるからだ。さらに、参照透過性があるとかなり乱数などが扱いにくくなる印象を持った。つまりは、仮にシミュレーションを haskell で組むとすれば決定論的なものがベースになってしまう(無論、実際にはアクションという概念を導入することで乱数なども取り扱えるようだが、ちょっと面倒なのはたしか)。これは、かなりのディスアドバンテージであるように思えた。

 

・遅延評価

 遅延評価とは、「必要になるまで計算しない」ということ。とだけ述べると、どうということはなさそうだが、実はこちらはかなり強力で、たとえば haskell では「要素数無限個のリスト」というトンでもないものが作れたりする。無論、本当にメモリを無限に確保したわけではなく、たとえば「要素数無限で各々の要素は"1"の繰り返しのリスト」を作ってそれの三億番目の要素にアクセスすれば、「ああ、これはずっと1を繰りかしているから三億番目も1だね」といって1を返す(非常に適当な理解。実際にGHCがどう処理しているかは知らないが、まあこんなところであろうと想像している)。また、これは遅延評価の範疇に入らないかもしれないが、リスト型にはどんどん要素を付加できる。これはかなり便利ではないかと感じた。要は、文字(長期の外部記憶媒体)を有する社会では当然、非常に古いログにもアクセスできる。これをたとえばCなどで再現しようとすれば、最初に猛烈な量のメモリを確保する必要があるが、しかしスタックオーバーフローになることが多い気がする。その点、haskell ならば簡単にリストへ要素を追加できる。

 

再帰

 再帰は、プログラマの人には釈迦に説法だろうが、一応解説すると、ある関数 func n があるとして、その定義を if func 1 then (hoge) else func n-1 みたいな感じで書くこと(伝わっているだろうか、この言語……)である。さて、haskell には for 構文がないので、繰り返し処理はだいたい再帰で書くようである。まだ実装できていないが、実はこの記法は社会における「メタ」な現象を書けないだろうか、と思っていたりする。つまり、ゲーム理論等で相手の戦略を読むとき、メタな視点があり、かつ相手にもメタ視点があると予想できれば囚人のジレンマゲームでも協力可能性が出てきたりするわけだが、そういうのを書ければ面白いと思う。ただ、再帰構文自体はどうもCとかでも可能っぽいが……。

 

 と、つらつら書いてきたが、haskell は「上手く使えれば使える」という凡百な結論である。ただ、副作用を扱いづらいのだけはちょっとなー、という感じ。遅延評価ができるオブジェクト指向言語とかあれば、かなり良さそうなのだが……。

 なお、私自身はプログラミング全般に関してド素人であることを書き添えておく。

図書館で借りた本

 

岩波講座 物理の世界 物理と情報〈1〉 スピングラスと連想記憶

岩波講座 物理の世界 物理と情報〈1〉 スピングラスと連想記憶

 

 

 

宇宙船地球号操縦マニュアル (ちくま学芸文庫)

宇宙船地球号操縦マニュアル (ちくま学芸文庫)

 

 

 

学生のための基礎Java

学生のための基礎Java

 

 

 

C言語による計算の理論 (Computer Science Library)

C言語による計算の理論 (Computer Science Library)

 

 

 

クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)

クワイン―ホーリズムの哲学 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

ううむ、まるで統一性がない……とりあえず、Javaを本格的に始めようと思う。

あと、分析哲学コミュニズムをもっと勉強したい。『スピングラスと連想記憶』は研究関連。

英語と数学のリハビリを並行しつつ、プログラミングはC言語Java, julia lang を主にやろうと思う。しかし、julia って構造体とかオブジェクトっぽいのないのかしら。

社会起業家的意識高い系の功罪

 意識高い系のことを、必ずしも全面的に嫌っているわけではないが、ここでは彼らの『功罪』について考えようと思う。特に、「社会起業家」といったふうに呼ばれる人たちに焦点を当てたい。私自身は全くそういう人ではなく、単なる外野だが、ある程度はそういう人を見知っている。多少、意見したいと思う。

 

 まず、功績の方から考えてみよう。

 冷戦もとうの昔に終わり、最早『共産主義社会主義』といった大きな物語が失墜したことは、かなり明らかであると思う。

 また、同時に世界には依然として大きな格差は厳として存在し、それに苦しむ人びとは多い。

 にも関わらず、(多くの)先進国の人びとは、ある人は拝金主義に、また別の人はある種の現実逃避に走り、それらが改善される気配は、中々見えなかった。とくに、アフリカなどは、「ブラックホークダウン」事件などを機に合衆国さえ、関心をあまり寄せなくなった(見捨てたと言い換えても良い)。これを事実と言えるかは分からないが、しかしかなりの人びとの認識に近いと思われる。

 では、世界を良くするにはどういう方策をとるべきだろうか。

 昔なら、カラシニコフを片手に革命を志すことが、解決策だと思われていた。

 しかし、それが解決策でなかったことは、歴史が証明してしまった。まあ、暴力で貧困や差別を解消しようとするのは無理筋だと、後知恵的には分かる。

 そこで登場したのが、社会起業家だと考えると分かりやすい(実際にそういう歴史的経緯があるかは知らない。ただ、そう考えるとストーリーとしてすっきりするというだけだ)

 彼らは、(非常にしばしば)パターナリスティックな視点を伴っていたが、しかし実際に彼らが善であると信じる行為を、自己犠牲を厭わずに、しかも合法的な範囲内で為した。これは、多くの場合そうであると思う。

 それを善と見るか偽善と見るかは、人の主観に依ることだし、彼らがいなければ死んでいたであろう人も、また多い。それは事実である。これは、彼らの功績として疑いえない。流血も、違法行為も伴わずに、革命を為しうる可能性を、実践の中で示したこと。賞賛しすぎる恐れは、あまりない。

 

 さて、気が重いが『罪』の方である。

 最大の罪は、彼らが「カッコわるい」ことだと思う。もっともこれは必ずしも彼らだけの責任とはいえなくて、ポストモダン的で、ある種のニヒリズムが蔓延した世相のせいでもあって、でも彼らはカッコわるい。そうでなければ、なぜあれだけ揶揄嘲笑の的となろうか。

 なぜカッコわるいか?

 ひとつには、彼らが未だにある種の「大きな物語」にしがみついていて、かつそれを世間も共有していると思っていることである。要は、ニヒリズム的世相を未だに認識できていないのだ。彼らの「物語」は、「全ての人に人権・安全・その他人間として必要とするものを届ける」という、これ以上ないくらいに真っ当なものだ。しかし、そもそも先進国の大半の人びとは「『物語そのもの』がダサい」と思っているので、どんなに真っ当でもそれが物語である時点で「ダサい」と看做される。非常に残念なことに。

 しかも、社会起業家の長所である「合法性」「非暴力性」がさらにそれをマルクス主義との対照において、「不徹底」な印象を与えているようにさえ見える。

 さらに、もう一つには彼らのパターナリスティックな視線や、ある種「内向きな社会起業家業界」の傾向もありそうだとは思う。

 さて、社会起業家の方はこういうかもしれない……「カッコわるくて何が悪い、我々のやっていることは意味のあることなのだから」

 それは、至極その通りである。

 しかし、問題は「社会起業家はカッコわるい」という認識が社会に定着することである。これが一般的になると、返って(?)ニヒリスティックなムードを助長する。

 当たり前だが、カッコわるいことをしたがる人間とは、常に少数派である。

 換言すれば、社会起業という行為はマルクス主義革命ほどの「カッコよさ」を持っていないのだ。

 しかも、これは社会起業活動という営為それ自体に起因する問題である可能性が高い(物語への執着、マルクス主義と比較して不徹底な印象)

 補足すれば、この「マルクス主義と比較したときの不徹底さ」は、資本主義の枠内において社会を改善しようというスタンスそのものに起因している。

 

 では、どうすれば社会起業家の皆さんはより「カッコよく」なれるだろうか。

 私が思いつく方針としては二つあって、

  • マルクス主義に負けないくらい魅力的な物語をつくり、それを流通させる。もしくは、そういった物語に乗っかる。
  • そもそも物語に執着することを止め、むしろ完全にビジネスとして開き直り金儲けの結果として貧困がなくなるように仕向ける。

 といったものである。まあ実現可能性が高いのは後者だと思うが、前者は前者でロマンティシズムを刺激するものがある(たぶん、いろいろな意味で無理だが)

 とはいえ、社会起業家の提示した「資本主義の合法的枠内で非暴力的活動により社会を変革する」というスタンス自体はリアリズムに基づくものだと思うし、実際に一部成果を上げている以上、修正主義とかフェビアン社会主義とかいう誹謗は無視して良いと思う。

 ただ、同時に社会起業家の視界に「被援助者」「資金提供者」以外の他者も入ってくれば、より良くなるだろうというだけである。