惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

社会起業家的意識高い系の功罪

 意識高い系のことを、必ずしも全面的に嫌っているわけではないが、ここでは彼らの『功罪』について考えようと思う。特に、「社会起業家」といったふうに呼ばれる人たちに焦点を当てたい。私自身は全くそういう人ではなく、単なる外野だが、ある程度はそういう人を見知っている。多少、意見したいと思う。

 

 まず、功績の方から考えてみよう。

 冷戦もとうの昔に終わり、最早『共産主義社会主義』といった大きな物語が失墜したことは、かなり明らかであると思う。

 また、同時に世界には依然として大きな格差は厳として存在し、それに苦しむ人びとは多い。

 にも関わらず、(多くの)先進国の人びとは、ある人は拝金主義に、また別の人はある種の現実逃避に走り、それらが改善される気配は、中々見えなかった。とくに、アフリカなどは、「ブラックホークダウン」事件などを機に合衆国さえ、関心をあまり寄せなくなった(見捨てたと言い換えても良い)。これを事実と言えるかは分からないが、しかしかなりの人びとの認識に近いと思われる。

 では、世界を良くするにはどういう方策をとるべきだろうか。

 昔なら、カラシニコフを片手に革命を志すことが、解決策だと思われていた。

 しかし、それが解決策でなかったことは、歴史が証明してしまった。まあ、暴力で貧困や差別を解消しようとするのは無理筋だと、後知恵的には分かる。

 そこで登場したのが、社会起業家だと考えると分かりやすい(実際にそういう歴史的経緯があるかは知らない。ただ、そう考えるとストーリーとしてすっきりするというだけだ)

 彼らは、(非常にしばしば)パターナリスティックな視点を伴っていたが、しかし実際に彼らが善であると信じる行為を、自己犠牲を厭わずに、しかも合法的な範囲内で為した。これは、多くの場合そうであると思う。

 それを善と見るか偽善と見るかは、人の主観に依ることだし、彼らがいなければ死んでいたであろう人も、また多い。それは事実である。これは、彼らの功績として疑いえない。流血も、違法行為も伴わずに、革命を為しうる可能性を、実践の中で示したこと。賞賛しすぎる恐れは、あまりない。

 

 さて、気が重いが『罪』の方である。

 最大の罪は、彼らが「カッコわるい」ことだと思う。もっともこれは必ずしも彼らだけの責任とはいえなくて、ポストモダン的で、ある種のニヒリズムが蔓延した世相のせいでもあって、でも彼らはカッコわるい。そうでなければ、なぜあれだけ揶揄嘲笑の的となろうか。

 なぜカッコわるいか?

 ひとつには、彼らが未だにある種の「大きな物語」にしがみついていて、かつそれを世間も共有していると思っていることである。要は、ニヒリズム的世相を未だに認識できていないのだ。彼らの「物語」は、「全ての人に人権・安全・その他人間として必要とするものを届ける」という、これ以上ないくらいに真っ当なものだ。しかし、そもそも先進国の大半の人びとは「『物語そのもの』がダサい」と思っているので、どんなに真っ当でもそれが物語である時点で「ダサい」と看做される。非常に残念なことに。

 しかも、社会起業家の長所である「合法性」「非暴力性」がさらにそれをマルクス主義との対照において、「不徹底」な印象を与えているようにさえ見える。

 さらに、もう一つには彼らのパターナリスティックな視線や、ある種「内向きな社会起業家業界」の傾向もありそうだとは思う。

 さて、社会起業家の方はこういうかもしれない……「カッコわるくて何が悪い、我々のやっていることは意味のあることなのだから」

 それは、至極その通りである。

 しかし、問題は「社会起業家はカッコわるい」という認識が社会に定着することである。これが一般的になると、返って(?)ニヒリスティックなムードを助長する。

 当たり前だが、カッコわるいことをしたがる人間とは、常に少数派である。

 換言すれば、社会起業という行為はマルクス主義革命ほどの「カッコよさ」を持っていないのだ。

 しかも、これは社会起業活動という営為それ自体に起因する問題である可能性が高い(物語への執着、マルクス主義と比較して不徹底な印象)

 補足すれば、この「マルクス主義と比較したときの不徹底さ」は、資本主義の枠内において社会を改善しようというスタンスそのものに起因している。

 

 では、どうすれば社会起業家の皆さんはより「カッコよく」なれるだろうか。

 私が思いつく方針としては二つあって、

  • マルクス主義に負けないくらい魅力的な物語をつくり、それを流通させる。もしくは、そういった物語に乗っかる。
  • そもそも物語に執着することを止め、むしろ完全にビジネスとして開き直り金儲けの結果として貧困がなくなるように仕向ける。

 といったものである。まあ実現可能性が高いのは後者だと思うが、前者は前者でロマンティシズムを刺激するものがある(たぶん、いろいろな意味で無理だが)

 とはいえ、社会起業家の提示した「資本主義の合法的枠内で非暴力的活動により社会を変革する」というスタンス自体はリアリズムに基づくものだと思うし、実際に一部成果を上げている以上、修正主義とかフェビアン社会主義とかいう誹謗は無視して良いと思う。

 ただ、同時に社会起業家の視界に「被援助者」「資金提供者」以外の他者も入ってくれば、より良くなるだろうというだけである。