惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

突然に

今日は体調が優れず,午前しか学校に行っていない。

なぜか放置していたこのblogを突然再開したくなって,今これを書いているというわけだ。

 

最近,映画を観たくてしょうがない,そんな時間はないのだけれど。

仕方がないのでyoutubeでそれらの予告編などを観ていた。

とくに観たいのは,『父を探して』 映画『父を探して』公式ホームページ というこの作品だ。

 

未来への不安に苛まれる。

しかし,人は,人の主観/意識は,結局のところ『今』という視点に定義上固定されている。

私にできるのは,今なにかを為すことでしかない。

そう自分に言い聞かせる。

 

自分は強くなりたいのだろうか,それとも優しくありたいのだろうか,それもよくわからない。

ところで,先日の新聞に岡潔と中谷治宇二郎の交友について書いてあった。

岡潔はまだ知名度があるが,中谷治宇二郎について知らない人もいるだろうから書いておくと,彼はあの『雪』を記した中谷宇吉郎の実弟であり,人類学者だった。日本考古学界に科学的手法を導入しようとしたことで知られる。

彼はフランス留学中に岡と出会い,親友になったが,まもなく中谷は病に倒れ,世を去る。

その後,岡本人の弁によれば「本気で学問にとりくむようになった」とのこと。

 

なんとなく,ここまで書いてきて自分の不安の正体が見えてきた。

「己は何事にも本気で取組めていない」

「己は何事かに対し,命を燃焼させることができるのだろうか」

という,かなり倒錯した問が,私の裡にあるのだ。

 

そもそも,『何事』かに対して命燃やすとはどういうことだろう。

対象なくして情熱的になるというのは,論理的におかしい。そうではない,今はまだ(とても残念なことに,20代も終わりにさしかかり『まだ』)模索期なのだ。

この事実を認めたくない,目を逸らしたいという無意識裡の欲求が,不安を捏造していた,と考えると蓋然性が高い。

 

ではどうすれば良いのだろう。

いつまでも,夢追い人ではいられない。人間は口に糊する必要があるからだ。

でも,口に糊していたからといって,夢を追えないわけでもない。

もはや確率を計算できないほど,不確定性に満ちた「運命」というものに,また縋る必要がある。

待って,待っている間に今やるべきことをやろう。

『知恵』

 のっけから私事ではあるが,私の両親は二人とも高卒で,明らかに東大卒・現大学院生の私より,学歴としては下である。また,彼らは宣言的な(明示的に言葉で示せるような)知識の量においても,私に遠く及ばないであろう。つまり,一般的な観方をすれば,まず間違いなく彼らは私よりも「頭が良くない」はずである。

 しかしながら,私は一年と少し前,久方ぶりに実家に戻り,家族と過ごしていく中で,その観方は間違っているとの認識を余儀なくされた。少なくとも,私の方が賢い,というステートメントは倨傲に過ぎた。現実の問題への対処の仕方,という意味でもだが(それは私の未熟さによる部分も大きい),それ以上に私を印象づけたのは,大仰な言い方をすれば「運命の受け入れ方」のようなものが,とても柔軟で,かつ彼らの持つ知的物的な広義の資源に即した現実的なものであった。

 

 たとえば,かなり極端な例であるが,既に何度か blog に書いたように私の祖父母の家――それは私の生家でもあり,母の生家でもあった――は六年前に火事で全焼し,祖母は大やけどを負って,数カ月間にわたり入院していた。その後,どうにか祖母は退院し,現在ではつつがなく暮らしている。私はずっと,火事に対して憎悪に近い感情を抱きつづけていた。私たちの想い出を奪った,取り返しのつかないイベントだと,そう認識していた。他方で,母や父は(多少,虚勢じみていたかもしれないが,しかしそれでも)「あの火事がなければ,頑固な祖父母が私たち一家と一緒に住んでくれるはずはなかった」「東日本大震災被災者よりは良い,他の人も被災していたら,到底乗り切れなかっただろう」と,複眼的に,単純な悲劇としてではなく,見ていた。私はかなり長い間,それをある種の『裏切り』のように思っていたが,しかし最近になってようやっと,それは彼らの知恵であると気づいた。火事という,もはやどうしようもない,不可逆的なイベントに対し,それを見つめる自身の視点を変えることで対抗ないしは共存を試みていた。

 これは,やはりひとつの知恵の在り方であると思う。知恵というものを,人間がその生を生ききるための知識ツールであると定義するなら。

 

 思うに,多くの人びとは,当たり前だが『弱い』。それはいろいろな意味に於いてである。学歴,というのがこの場合であるが,場合によって資力の弱小や政治的抑圧など,様々であろう。そして,ジップの法則からして大半の人びとは平均値を下回る≒『弱い』

 しかし,そういった『弱い』人びと,あるいはもう少し穏当な表現としての『庶民』『大衆』(とはいえこの表現も,まるで大衆は大衆として一枚岩であるかのような印象を与え,良くないが)もしくは『普通の人びと』(common people, という表現はカール・ポランニーが用いたものであった)にも,知恵はある。もちろん,彼ら彼女らのうちにも知恵の大小はあるが,それでもやはり大抵の人にはある。また,それらの特徴として顕著なのは「弱いがゆえに敵対者を排除できず,ために(仕方なしにとはいえ)敵対者や障害との共存を図る知恵が発達する」という点だと思う。火事にポジティブな面をも見出す,というのはその一つの発露であろう。また,私のように火事に拘泥していつまでもそれを嘆くより,よほど生産的である。それは実際に,ある意味で想い出を裏切ることであったかもしれないが,しかしそれが「だましだまし進む」ということの意味かもしれない。

 

 同時に,これらの知恵にも限界があるとも感じる。たとえば,「私よりもつらい人がいるから,我慢しよう」という考え方。これ自体は,実際にある程度は人の持つ忍耐の限界を深めるし,また誰かに迷惑をかけるわけでもなく,やはり『普通の人びと』が持つ知恵である。しかし,同時にこれは明らかにブラック企業などが悪用している。謂わば,普通の人びとの知恵は巧妙な悪意には脆弱である。それはカルト宗教の布教手段にも見受けられる。また,大抵の場合にはこうした知恵は『構造化』されていない。謂わば無時間的に配置されているのみで,とくに内省によって知恵を結晶化することはほぼない。レトリカルな言い方をすれば,これはあくまで『知恵』であり,必ずしも『思想』ではないということだ。思想は精神が内省によって,自己を批判的に乗り越える地点で始まる。知恵は知識をツールとして扱うということであり,必ずしも内省は必須ではない。

 

 これら『普通の人びと』が持つ知恵の価値は,なんだろうか。もちろん,応用的に有為である,ということもあるだろう。しかし,多くは生活の実態に即していて(即しすぎていて)容易には他の場面に応用できない。ただ,逆に個別特異的な知恵であるがゆえの意味,というのは考えられないだろうか。すなわち,ある家族,あるいはある村落でしか通用しないがゆえに,反ってその構成員には強い意味を持ちうるような知恵。ネグリとハートの『マルチチュード』概念も,そういった面から読み解くことが可能かもしれない。

世界の粒度について

 いきなり大上段に構えた話で恐縮だが,近代科学は基本的には――無論,例外は多々ありそれは最近になって増加傾向にあるように見えるが――要素還元主義的であった。世界を十分に分割し,分割された範疇内での事象を可能な限り徹底的に観察し,考察し,実験を行い,そして後に綜合を行う。この戦略は,明らかに歴史的に見て大成功を収めたといえる。複雑系や,創発減少の研究者には不満だろうが,しかしやはり要素還元主義者はかなりの成功を収めている。とくに,自然科学の分野ではその傾向は顕著で,よほどのつむじ曲がりでもない限りは否定しようともしない。

 さて,ではこの戦略には一切の瑕疵がないのだろうか。万能,全能な方法として,人間の持つ知を際限なく拡大してくれるのだろうか。これが機能不全を起こすような状況を,仮定し得ないであろうか。 

 仮に,分割すべき対象が,実数のように「無限に」あるいは人間の視点からではほとんど無限に分割できたならば,どうであろうか。謂わば,世界の『粒度』が実質無限であったならば?

 要素還元主義は,多分にアトム的な世界観に依拠している。どんどん分割してゆけば,いつか必ず最早これ以上は分割不可能な原子にたどり着き,そしてそれ自体が有限な存在である以上,それを知り尽くせばあとは世界を理解したも同然である,というシナリオが,背後にはある。しかし,(もちろん専門外なので怪しい理解ではあるが)現代の素粒子物理学も,原子にたどり着いたと思えば陽子・中性子・電子に,さらにクオークに,ハドロンに,果ては超ひもにまで行き着いてしまい,なかなか本来的意味でのアトム=分割不能性を持つ粒子,には行き着かない。もはや,物理学者たちは「とりあえず行けるところまで行こう」といった態度で極小スケールの世界に取り組んでいるようにさえ見える。

 話が物理学に留まっていたなら,まだしも簡単だったかもしれない。しかし,社会科学等においては recursion が存在する――つまり,再帰的に自己を内含するような事象が発生しうる。この地点で,最早要素還元主義の翼は羽ばたかない。曼荼羅に対し,それはただ沈黙するのだ。

 では,要素還元主義と補完的な代替案はないだろうか。おそらく,人類はまだそれに対し模索期にあるのだろう。冒頭に述べた創発概念や複雑系などは,それに意識的か無意識的か(まず意識的だと思うが)応答しようとした試みであると思う。世界の粒度が無限大に発散する地点に,人間の手は届くのだろうか。

今週読んだ論文20151220

今週も大して読めていないし分野もてんでんばらばらなので,もう少し量を増やした上で戦略的にどのディシプリンの論文を読むかを決めないといけないだろうと思った。今回は日本語の論文ばかりである。

  1. 向山恭一. "マルチチュードとわれらの時代の革命." (2006).
    アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『マルチチュード』という概念を知りたくて読んだ。とてもバーバルな感じなので,中途半端に理系な私には理解が追いつかない部分も多し。何となくだが,ネグリとハートの思想はある種の「仕様」みたいなもんで,実装は文字通り今後の課題なんではないか,とは思った。ちょうど昨日『マルチチュード』の日本語訳が届いたので,読んでみようと思う。ちなみに英語が得意な人なら英語版はWEBに無料で公開されているようだ。

  2. 青山征彦. "エージェンシー概念の再検討: 人工物によるエージェンシーのデザインをめぐって." 認知科学 19.2 (2012): 164-174.
    先日のBlogにも少し書いた Actor Network Theory でググったら出てきた。ANT自体をちゃんと理解できているわけではないが,少なくとも面白い考え方だとは思った。個人的に気になったのは,Kaptelinin & Nardi (2006)からの引用で,エージェントには多様性と異質性があるということ。私なりの解釈では,たぶんこのヘテロジニアスネスは各エージェントの他のエージェントに対する『立ち位置』に多くを負っているのだろうと思った。そう考えると,人間-人間以外の生物-非生物を内含するヘテロジニアスなネットワークはソーシャルグラフで表現できそうかもしれない。

  3. 師茂樹. "「デジタルアーカイブ」 とはどのような行為なのか." 情報処理学会研究報告. 人文科学とコンピュータ研究会報告 2005.51 (2005): 31-37.
    私が今週読んだわずか三本ばかりであるが,その中では最も面白かったし,勉強にもなった論文。最近はデジタルアーカイブにとても興味を持っているが,その根源的な部分が孕む問題を指摘している。
    「デジタルアーカイブが現在ある(地域文化を含めた)文化のあり方のみを強力に固定化,権威化し,これから起こりうる可能性を抑圧することだけに加担するのだとすれば,それは果たして『次世代への継承』と言えるのだろうか」
    この視点は私の中で欠落していたので,蒙を啓かれた思いである。とくに,イノベーションという観点からこれを考えなおすと,面白いのではないか。つまり,過去の蓄積なくしてイノベーションは起こりえないが,同時に過去の蓄積の『重さ』みたいなものが大きすぎても,やはり起こりえない,そういうアンビバレンツの中にイノベーションはあるのかもしれない。

以上,今週読んだ論文の報告である。来週までにはもっと読まないといけない。

Agent-based Simulation と Actor Network Theory について

 ANT(Actor Network Theory)については,結構前からその存在自体は知っていて,またABS(Agent-based Simulation)との接合,みたいな考え自体もあったが,あまり考えが纏まらなかったので特にBlogには書かないでいた。いまだ確固たる意見を持つには至っていないが,一応少し着想を得たので,メモ書き程度のことを書き散らしておこう。

 

 まず,ANTは主体性の帰属対象を人間のみに限定せずに,人間以外の生物,あるいは無生物にまで広げた箇所に「観点としての」新規性がある思想である。私の理解によれば,この理論はOPP(Obligatory Passage Point)という視点を定めたうえで,それに関与する/関与される一切の存在を『アクター』として記述するものだ。

 そして,この考え方は実はABSとかなり相性が良いのでは,というのは私の意見である。つまり,ANTはヘテロジニアスな各種アクターが織りなす総体として,現象を記述する点にその特徴があると私は見ているのだが,これは発想自体はかなりABSに近いそれだと言える(もっともABS自体に私の知る限りではコンセンサスのある定義があるわけではないし,多様な側面がある以上これだけで似ているとするのは牽強付会に過ぎるかもしれないが)。たぶん,一捻り二捻り程度の細工をすれば,かなり良い具合にABSに乗っかるのではないか。

 

 具体的に,どうABSあるいはより一般に数理的な言葉にのせるか。

 たぶんだが,かなり素直にフィッティングしてくれそうな気もする。ただ現段階では私自身がエージェンシーに関する諸理論やANT, ハイブリッド・コレクティヴに関してかなり無知な状態にあるため,なんとも言い難い。しかし,人間以外にエージェンシー/主体性を措定するというのは,個人的にはかなり魅力的に想える。シミュレーションという世界でいかに非生命にまでエージェンシーを付与しようと実装できるか,脳の体操には少なくとも良いと思う。もっと言えば,Agent間の相互作用そのものがある種のAgentとして立ち現れるような,そういう系も措定可能かもしれない。

今週読んだ論文20151213

今度から,自分の読んだ論文を日曜日にSNS上へ報告することにした。では早速。

  1. 舛本現. "ラムダゲーム: メタゲームへのアプローチ (数学解析の理論的展開の計算機による支援・遂行可能性)." (2004).
    ラムダ計算+GA,で「ゲームのルールそのものが進化するゲーム」をシミュレーション上で行ったもの(らしい)。λ記法をよくわかっていないので,結局よくわかっていない。とりあえず meta-game っていうトピックがあることはわかった。Howard, N. 1966 あたりを今度入手できれば読んでみて,もう一度読み返したい。
  2. Sallach, David L. "Categorial social science: Theory, methodology and design." Proceedings of the World Congress on Social Simulation. 2012.
    圏論を社会科学に応用『したい』といっている論文,たぶん。個人的には圏論とグラフの違いをよくわかっていないが,まあこれはマニュフェスト的サムシングなんだろうとは思った。参考文献にある Brown, Ronald. "Memory Evolutive Systems." Axiomathes 19.3 (2009). という本が興味深そう。
  3. Hutter, Marcus. "Algorithmic information theory: a brief non-technical guide to the field." arXiv preprint cs/0703024 (2007).
    Chaitin, G. の "Proving Darwin" を読んで,AITに興味を持ったのでダウンロード。論文というより初学者向けのパンフレットに近い,というか初学者向けのパンフレットである。とりあえずコルモゴロフ複雑性までは理解したが,ソロモノフ確率はよくわかんなかった(小物並の感想)

 

 こうして見ると,今週も大して論文を読めていないことがよくわかってしまう。少しずつでも増やしたい。ついでに各論文もけっこう頁数自体が少なかったりする。あと,基礎的な部分をよくわかっていないで応用を読もうとしているね。
 さらに数理にかなり偏っているなあ。理論生物学とか社会学の論文も次回までには報告できるようにしたい。

『歴史』とは現在を説明するための,過去に関する仮説である

 我々はいかにして過去を認識しているのか。

 というのも,過日に集合的記憶論についてちょっとした発表をしたのだが,少しだけ『歴史』とは「事実生起した事物」という意味か,それとも我々の間主観あるいは主観としての過去に対する表象か,という論点が提出された。そのときはすぐに別の話題に移ったし,また私自身大して気に留めなかったのだが,しかしよく考えるとこれには重大な論点が潜んでいるように思われた。そのことについて,メモをしておこう。

 

集合的記憶

集合的記憶

 

 

 まず,当然ながら過去それ自体は現前しない。そのため,我々は過去を思うときに何らかのメディア(媒体)を必要とする。

 しかも,そのメディアはメディアの常として正確な総体としての過去は,無論伝えてくれない。

 そこで,我々は残されたメディア≒手がかりを基に過去の再構成を試みる必要に迫られる。過去を物語る(と思われる)ある手がかりから『現在』(あるいはより近い時点での過去)を説明しようとするわけだ。

 ここで重要なことは,過去の再構成は必然性ではなくて,蓋然性にもとづく,ということだ。論理から演繹されるというより,「この手がかりが現在に残されたということは,かつてこのような事件が起きたり,あるいは斯様な事態が発生した可能性が高い」という程度であって,過去に関する仮説は新しい手がかりが発見されるにつれて強化されたり修正されたりあるいは棄却されたりする。その意味では,ベイズ統計のような主観確率に馴染む。

 この意味で,歴史とは過去それ自体というより(『過去』は現前しない),現在を説明するための過去についての仮説であって,冒頭に述べたような「事実生起した事物」というものは,ある種思考の見通しを良くするための仮想的な存在,言うなれば遠近画法における無限遠点のようなものではないか。

 もっとも,タイムマシンが発明されればその限りではないだろうし,またそもそも「蓋然性が極めて高いと思われる『歴史』」=「仮にその歴史的事象が生起したならば現在の状況を極めてよく説明可能な,過去に関する仮説」を否定するにはその蓋然性を覆す,よほどの新しい証拠が必要である。

 とはいえ,しかし『歴史』とは根本的にはやはり『仮説』であり,それを支えるのは弱々しい蓋然性なのではないだろうか。この事実を改めて指摘したのが史学における言語論的転回(Linguistic turn)であり,また近年ならよりラディカルな形での保苅実だったのではなかろうか。

 

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

 

 

 この辺りの『脆弱性』を利用しているのが,各国の「歴史修正主義者」と呼ばれる人びとであろう。

 以上の主張を手短に言えば,「『歴史』とは現在(とそれが包含する手がかり)を説明するための,過去に関する仮説である」となろう。なお,この主張がかなり先鋭的に現れているのは,今の私の考えではC14年代測定法ではないかと考える。C14の量,という現在の手がかりを最も蓋然性を持って説明可能な(この場合においては)数字が,過去に関する仮説として提出されるのだ。

 「アカシック・レコード」のようなものでも存在するならばいざ知らず,実際には過去は現前しないし,また現前するのは現在だけであるということを条件として考えるならば,以上の考察はそれなりに自然なものではないだろうか。過去の再現は,未来の予測と本質的に似ている,気がする。

 

追記:

書いてから気づいたが,たぶんこれは哲学の方で「現在主義」と呼ばれる観方を暗に仮定していた。