惑星からの逃走線

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自由意志と社会シミュレーション

 自由意志の問題と社会シミュレーションという、一見して明らかに結びつくにくそうなトピック二つであるが、私の考えるところによれば、これらは密接な関係がある。なぜか、を以下に解説したい。

 まず、自由意志というのは(基本的には、という留保を付けた上で)現代科学界においてはその存在を否定されている。当然だが、意識は脳という物質の活動に付随するものという前提を認めると(まあこの前提に関しても多々議論はあるようだが)、脳内現象であるところの意識も当然、因果論に従っているはずである。もちろん、量子レベルになれば確率的な影響を受けるが、脳細胞とかでは基本的にないものとして良い(ということだったはず。間違えているかも)。ならば、我々が通常想定するような、「自由意志」はないということになる。

 さて、なぜ社会シミュレーションと関係があるのか、である。

 ここまで、「自由意志」という言葉を特に定義せずに使ってしまったが、改めて定義を与えよう。Wikipedia当該項目では「行為者の自由な意志」などというトートロジーでしかないような定義を書いてあるが、はてなキーワードにより良いものがあったのでそれを使用したい。

行為者(エージェント)の内部と外部があることを前提とする.ある行為は行為者内部からの選択・決定によって行われているのだと考えるとき,自由意志とはこの内部に生じるものをいう.これに対し,ある行為が外部からの選択・決定によって行われているのだと考えるとき,意志があるとしてもそれは自由ではないと考えられるから,自由意志はない.

過去から導かれるもので選択・決定があらかじめ決まっているのだとするのが決定論的な考え方である.もし「過去」が内部に生じる複数の選択肢を用意し,それに基づいて内部から行為を選択・決定するのであれば,この内部に生じるものは自由意志だと考えられる.もし「過去」が外部から '刻印' されるものであり,内部条件とは関係なく行為が選択・決定されるのであれば,そこに自由意志はないと考えられる.

自由意志とは - はてなキーワード

 では、このような行為者は考えうるだろうか。実は、社会シミュレーションモデル上であれば考えることができるのではないか、というのが私の意見である。

 というか、基本的にゲーム理論などは全て自由意志を仮定しモデルを組み立てていると思われる。

 なぜか。社会シミュレーションというより経済学で使われる用語だが、「効用関数」というものがある。大半の方はご存知だと思うので読み飛ばすかもしくは適宜ツッコミを入れるなどしていただきたいのだが、要は「何か(財、サービスなど)を手にした時に得られる、満足の度合いを数値化したもの」である。

 そして、満足の度合いがより高い方の選択肢をほとんどの場合、行為者は選ぶ――というのが、基本的な経済学のモデルである。もちろん、神経経済学などでは違うが。

 そして、ゲーム理論では与えられた選択肢を選ぶ余地がある(均衡に至って事実上一つの選択肢しか選べないことはままあるが、そうではなくて原理的な話)し、それはABMなどでも変わらない。

 さて、やっと本題だが、社会シミュレーションモデルのほとんどは人間の自由意志を前提としているのではないか、というのが私の主張したい点である。

 個人的にはこれって結構再考の余地がある話ではないの、と思うのだが、一旦これについては項を改めたい。