惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

私が善く生きるには,私は自らの死す日を知るべきではない

 昨日,ちょっとした勉強会のあとに友人らと駄弁っていたが,そこで(有限手番の)経済実験では最終ターンで一挙に協力率が下がってしまう,またそれはゲーム理論的に有限手番のゲームでは後ろ向き帰納法を使って考えることでも,ある程度は納得できる,などという話題になった。そう,有限手番のゲーム――正確には各プレイヤーがいつそのゲームが終わるかを知っているゲーム――では,最終ターンでは「勝ち逃げ」を狙い一気にほとんどのプレイヤーが裏切りだす。他方,無限ターンのゲーム,といっても実際にはいつゲームが終わるか各プレイヤーが知らないだけのゲームだが,では,上手く設計すると最後まで協力が維持される。

 無論,現実に近い状況としては無限ターンの方である。なぜか,我々のうちほとんどは自身の死ぬ日を知らないからである。

 人は,死への恐怖をどこかに抱いて日々を生きている。

 しかし,(少なくとも私くらいの年齢だと)その日はどうせ遠くだろうと,高をくくって生きてもいる。だからこそ,悪い言い方をすれば他者からの報酬/復讐を期待し/恐れて規範に従おうとする。

 社会的に見れば,人びとが自身が去る日を知らないでいることの利点は,このように明らかである。あるいは,死期を悟った人にも協力行動を維持させるべく『来世』というフィクションを提供していたのが,宗教という装置なのかもしれない。また,もううんざりする程に指摘されている「老人が傍若無人である」という事実も,こういった観点から説明可能な気もしてくる。明日,この世を去る可能性が無視できないとすれば,そして少なくとももう何年も現し世に留まらないであろうというならば,なぜ他人に気を遣うのか?

 

 宗教というものが,以前の力を様々な面で失いつつある今,人が『善く』生きることに必要な装置はなんだろう。正直,私は老人の眉を潜めたくなる振る舞いを,笑う気にはあまりなれない。単純に,自分が同じ状況ならば似たようなことをするだろうと思うからだ。やぶれかぶれな気分というのは,人間にそういう行動をさせる。

 仮にそれでも人に協力行動を維持させうる何かがあるとすれば,それは何であろうか。一つ考えうるのは,故人を牢記する習慣を生者が持つことではないだろうか。仮に自身が末節を汚してしまったとして,死後,たとえ自身は無に帰していようと,やはり「彼/彼女は生のほとんどを通じて善き人であったが,最後で踏み誤った」などと言われるのは,人間としてかなり嫌なものではないだろうか。もちろん,この方法では宗教ほど強い影響はないと思うし,また子孫に害が及ぶかもしれないという非常に大きい欠点もある。とはいえ,これ以外には私の思いつく手法はなかった。

 

 最後に補足を。以上の議論は,儒学的な言葉を使うならほぼ性悪説に基づいた議論だ。

 世界には,当然自身の恐ろしい定めにも,敢然として立ち向かった,立ち向かっている人びとは大勢いる。彼らの存在を,決して無視したわけではない。ただ,多くの人びとの最大公約数的傾向と,その対策について述べたまでである。

 ただ,もしも人間の寿命がたとえば100年なら100年と決まっていたら人びとはどうなってしまうだろうか。私は,たぶんとても虚無的な気持ちになるのではないかと想像する。やはり,死はいつ到来するかわからないからこそ恐怖であるが,しかし私は自分の死ぬ日を知りたくない。