惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

『歴史』とは現在を説明するための,過去に関する仮説である

 我々はいかにして過去を認識しているのか。

 というのも,過日に集合的記憶論についてちょっとした発表をしたのだが,少しだけ『歴史』とは「事実生起した事物」という意味か,それとも我々の間主観あるいは主観としての過去に対する表象か,という論点が提出された。そのときはすぐに別の話題に移ったし,また私自身大して気に留めなかったのだが,しかしよく考えるとこれには重大な論点が潜んでいるように思われた。そのことについて,メモをしておこう。

 

集合的記憶

集合的記憶

 

 

 まず,当然ながら過去それ自体は現前しない。そのため,我々は過去を思うときに何らかのメディア(媒体)を必要とする。

 しかも,そのメディアはメディアの常として正確な総体としての過去は,無論伝えてくれない。

 そこで,我々は残されたメディア≒手がかりを基に過去の再構成を試みる必要に迫られる。過去を物語る(と思われる)ある手がかりから『現在』(あるいはより近い時点での過去)を説明しようとするわけだ。

 ここで重要なことは,過去の再構成は必然性ではなくて,蓋然性にもとづく,ということだ。論理から演繹されるというより,「この手がかりが現在に残されたということは,かつてこのような事件が起きたり,あるいは斯様な事態が発生した可能性が高い」という程度であって,過去に関する仮説は新しい手がかりが発見されるにつれて強化されたり修正されたりあるいは棄却されたりする。その意味では,ベイズ統計のような主観確率に馴染む。

 この意味で,歴史とは過去それ自体というより(『過去』は現前しない),現在を説明するための過去についての仮説であって,冒頭に述べたような「事実生起した事物」というものは,ある種思考の見通しを良くするための仮想的な存在,言うなれば遠近画法における無限遠点のようなものではないか。

 もっとも,タイムマシンが発明されればその限りではないだろうし,またそもそも「蓋然性が極めて高いと思われる『歴史』」=「仮にその歴史的事象が生起したならば現在の状況を極めてよく説明可能な,過去に関する仮説」を否定するにはその蓋然性を覆す,よほどの新しい証拠が必要である。

 とはいえ,しかし『歴史』とは根本的にはやはり『仮説』であり,それを支えるのは弱々しい蓋然性なのではないだろうか。この事実を改めて指摘したのが史学における言語論的転回(Linguistic turn)であり,また近年ならよりラディカルな形での保苅実だったのではなかろうか。

 

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

 

 

 この辺りの『脆弱性』を利用しているのが,各国の「歴史修正主義者」と呼ばれる人びとであろう。

 以上の主張を手短に言えば,「『歴史』とは現在(とそれが包含する手がかり)を説明するための,過去に関する仮説である」となろう。なお,この主張がかなり先鋭的に現れているのは,今の私の考えではC14年代測定法ではないかと考える。C14の量,という現在の手がかりを最も蓋然性を持って説明可能な(この場合においては)数字が,過去に関する仮説として提出されるのだ。

 「アカシック・レコード」のようなものでも存在するならばいざ知らず,実際には過去は現前しないし,また現前するのは現在だけであるということを条件として考えるならば,以上の考察はそれなりに自然なものではないだろうか。過去の再現は,未来の予測と本質的に似ている,気がする。

 

追記:

書いてから気づいたが,たぶんこれは哲学の方で「現在主義」と呼ばれる観方を暗に仮定していた。