惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

人間の条件と,死者を想起すること。

 最近,5年前に亡くなった母方の祖父を思い出すことが多い。

 理由ははっきりしていて,同じような別れを母方の祖母とする日が,そう遠くない――もちろん,明日か10年後かは分かる由もないが――だろうという,漠たる予感があるのだ。

 人間にとって,やはり死は受け入れがたい。そして,にもかかわらず(あるいはだからこそ)死は万人に到来する。

 

 

 5年前の祖父の死は,私にとっては初めての近親縁者のそれであった。

 そのとき,彼はまさしく「ピンピンコロリ」とした逝き方をしてしまったので,しばらく彼が逝去したという実感さえわかなかった。

 ただ,もちろんそれは私にとってのことであり,半世紀を超えて連れ添った祖母には非常にショッキングであったろうことは,傍から見ていても察せられた。

 そして今,今度は祖母が「日々を死んでいっている」

 徐々に,彼女にできることは少なくなっているし,体力もかなり低下している。

 たぶん,彼女が亡くなれば,私は祖父が亡くなったときの彼女のような状態になるのではないだろうか。

 

 人は愛する者を亡くしたときに,何か為しうるところがあるだろうか?

 愛する者は既に無である以上,最早何も為しえない,が論理的には全く正しい解答であろう。しかし,人はそれに納得しない。どういうわけだか,(素直に考えれば)無意味な儀式を死後数年にわたって執り行い,繰り返し繰り返し故人を想起する。なぜ,人間は死者を想起するのだろうか。

 これを,死を目撃してしまいその恐怖を紛らわせるために弱い人間がしているのだ,といって片付けることは容易い。しかし,何故に人間だけ弱いのだろうか。大半の動物は,自身の死を予期して恐れたりしない。

 もちろん,これへの解答は「人間は他の動物に比べて極端に高い知性を持っているから」であるが,ではなぜ高い知性を持つことができたのか。

 

 累積的文化進化,という考え方がある。文化進化は遺伝子に依らない行動形式≒文化の進化であるが,それが特に累積的≒世代を超えて文化が蓄積されていく,という場合にこの累積的文化進化であるとされる。世代を超えて,というのがポイントで,要は先行世代の文化に次世代が磨きをかけるということだ。これこそが,人類の人類たる所以,人類が特別に高い知性を手にした理由,また特別に高い知性で行ってきたことである。

 ところで,これを行うには当然ながら死者の行動を牢記しておき,また適切に想起できねばならない。要は「死者(の行動様式)を思い出す」ことが不可欠なのだ。

 これは単に問題の言い換えかもしれないが,先の問,「なぜ人間は死者を想起するのか」に対して一定の解答になっている気もする。要は,高い知性を持ち文明を維持できるポテンシャルを持つことと,死者を想起してしまう/死者を想起できることは,表裏一体であるといえる。

 

 さて,私は祖母から改めて何を学べるだろうか。彼女はもう認知症で,『能力』という意味ではほとんど何もできない。しかし,それでも私は彼女の側で生活して,やはり重要なことを学んでいる気がする。たぶん,他者を敬う,他者に寄り添う,ということを(本当に私ができているかは全く別として)学びうるのだ,と思っている。

 願わくば,せめて私がそれを学び取れるまでは,祖母が元気でいてくれますよう。