惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

「人類を滅ぼそう」は解決策だろうか?(たとえ,それが冗談であったとしても)

 よく,twitter等で社会的な問題や価値観同士の摩擦などが問題になったとき,ツイッタラーたちが冗談半分に「人間がいるから全ての問題が起きる。じゃあ,人類を滅ぼせば全て解決ではないか!」などと言い合っていたりする。

 これは一見した限り,論理としては全く正しい。実際に,問題というのは人間がそれを認識する限りで問題であり,人間がいなくなればそもそも問題として見る者がいない。ならば,人類を滅ぼそう,は「全ての」問題の抜本的解決たりうるだろう。

 

 しかし,私はこれに対して,一抹の違和感を感じる。もちろん,こういった発言は罪のないジョークだし,それらを一々あげつらいケチをつけるつもりもない。

 しかし,どうしても自分の違和感がそう思ったところで解消できないのだ。これについて,少し考察を加えたい。

 

 真っ先に思い浮かんだのは,私の中にある「過去への敬意」という感情だ。私は,先人たちの人間としての過ちと栄光とに,私なりに尊崇の念を抱いているつもりだ。こういう人間にとっては,そもそも「人類を滅ぼす」という行為自体が,先人から継受した灯火を絶やす行為と看做す他なく,結果この種類の言説に強い反発を覚えるのかもしれない。

 同時に,この人類の歴史というのは,試行錯誤の歴史そのものといって過言でない。ここで顕著なのは,「問題が発生する→アドホックな対処を行う→アドホックな対処そのものから新たな問題が発生し……」というループの存在だ。重要なのは,ここにおいては「問題の発生が新たな問題」を生じさせると同時に,問題の発生はイノベーションの連鎖的な発生をも意味しているということだ。この観点に立つとき,「問題への対処(≒イノベーション)はアドホックさと抜本性のみならず,同様に更なるイノベーションの発生を見込めるか否か」でも測られるべきだという判断基準を持つことは,私には比較的自然であるように思われる。

 さて,この基準に照らし合わせて,「人類を滅ぼす」という『抜本的解決』は,著しくバランスを欠く。新たなイノベーションの可能性を全て絶っているので,当然といえば当然である。私が,ああいったちょっとしたジョークに対し強い反発を覚えるのは,こういう心理が根底にあるからかもしれない。