惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

大衆を「自然」と看做す為政者の発想と社会シミュレーション

 為政者は,多分に大衆(もっと有り体にいえば被治者)を一種の『自然現象』として看做す思考乃至発想が,あるように思われる。丸山眞男によれば江戸期武士階級などは如実にそうであったという。

 さて,具体的に被治者を自然と看做す発想は,どういったものか。例示するなら,

  • 被治者を羊に統治者を羊飼いに見立てる。つまりは,被治者というのはある意味で一般の動植物と変わらず,統治者の適切な指導が必要である。
  • また,時として被治者は統治者に対し反抗を企てるが,それは洪水とか地震といった自然災害に近いものとして統治者は捉える。もう少し良い例を挙げれば,むしろイナゴの大発生に近いだろうか。
  • また,統治者と被治者は生来的にその種を別としている,というのも一類型として考えられる。インドのヴァルナ/ジャーティは,そういった『種別』のカスケードとして考えることができる。

 これは,私の臆見ではたぶんある程度の規模を持つ社会の統治者層にはかなり普遍的に見られる現象であると思われる。というのも,人間の思考として「『奴ら』は蒙昧だが,『我々』は文明人である」というものに基づく分類だと考えられるからだ。

 さて,近代的な意味での民主制が発達し,それによって主権を国民が握るようになった後,このような思考法は当然,一旦は後退しただろう。少なくとも表面的には。

 ただ,仮に先ほど推測したように被治者を自然現象と看做す思考法が,それなりに一般性を持つものだとすれば,それが民主主義国家のエリート層に発達してもおかしくはない(非民主的な社会に較べればずっと発達しづらいとは思うが)

 そしてこのとき,仮に近代的な科学という思考法が,『大衆という自然』に適用されれば,それは慄然たる結果を招くのではないか。個人的なことに引き寄せて言えば,私の学ぶ社会シミュレーションというディシプリンは「人間を自然現象と区別しない」でそれを理数的に考えよう,という側面があるが,もしもこれが「大衆を自然現象と区別しない」で考えよう,ということになったとき,社会シミュレーションは権力者の自己正当化のために使われる「無花果の葉」と化すかもしれない。

 その辺りの微妙だが重要な線引きを,常々留意しておきたいものだ。