惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

もし世界が百人の村だったら,百人のうち百人が犯罪を犯しています。

 たぶん,小数点以下を四捨五入すれば掲題の通りになると思う(ちゃんと統計とったわけではなく,私の直感だけど)

 こんにち,「他民族に対し犯罪(戦争犯罪・虐殺・民族浄化など)を働いたことがない民族」などというのはごく一部の狩猟採集民ぐらいのものであろう。

 日本人も,中国人も,インド人もアフリカ人も。欧米人は,まあ言うまでもないというか。もちろん,その犯罪の濃淡に差はあるが。

 こういう状況下で,たとえば(たとえばである)「中国人はチベットで散々狼藉をしたから,南京大虐殺について何かを言う資格はない!」と息巻いても,全く生産的ではない。仮にこの論理が通るなら,互いの被害者意識(それは厳として存在するのである)に蓋を被せ,それが暴発する日を少しだけ延長するに過ぎないであろう。そして,そのような状況は確実に諸国間諸民族間の精神的亀裂を深めるだろう。我々に必要な存在は,忘却と風化ではなく,想起に基づいた裁定であろう。しかし,誰が裁定者たりうるのか? 誰もが誰かを傷つけている,そんな状況で,一体和解と,仮初であっても平和を基礎付けることができるのは,一体誰であろうか。しかも,百人の村人には必ずしも共通した規範意識はないのだ。

 また,同時に以下の点を指摘しておこう。

  • 自分の方から一方的に非を認めても,その国は一方的に損をする可能性が高い。
  • 他方,互いに全く非を認めなければ互いの亀裂は深まる。
  • しかし,互いに非を認め合うと(というより,非を認める国が多ければ),相互の歩み寄りも期待できて全体としては望ましい。

 うーん,これは古典的な Public Goods Game で定式化できそうな気がする。あるいは,空間構造を持つ場合の Prisoner's Dilemma に近いかもしれない。仮にそれらで定式化できても,そこからどう和解に繋げるかは,難しいが……。