惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

「虚学」という虚像

 実学でない,と批判されがちな学問にはひとつ共通点がある。

 それはその価値をある種のトートロジーに求めている点である。

 具体的には,西洋古典学が「西洋古典学を学ぶと古代人の馥郁たる精神の香りに触れることができる,ゆえに西洋古典学は有益である」と主張するが,実際に「古代人の馥郁たる精神」に触れて効用が高まるのは,彼/彼女が西洋古典学的な文化伝統に浸かっていなければまず考えられない事象であることだ(なお,西洋古典学があくまで一例であり,西洋古典学を特にあげつらっているわけではないことを注記しておく)

 ここに「ある学問が有益なのは,そもそも学徒の周辺にその学問の成果をある種の間主観性として身に付けている(≒教養)人々が他に存在する」場合という,トートロジカルな状況が発生する。

 

……と,これだけ書けば単なる「人文系諸学不要論」で落ち着きそうだが,もう少し論を進めてみよう。

 では,翻って世に『実学』とされることが多い学問,それも経済学・経営学等を,まずは考えてみたい。

 なぜ,これらは実学とされやすいのか? 身も蓋もない言い方をすれば,「お金が稼げる可能性が高いから」であろう。他に理由はなさそうだ。「自然物を外から調べるのは実学では」というご指摘をいただいた。たしかにそういう定義もある。一応,ここでは通俗的な定義での『実学』ということにしておく。

 しかし,である。そもそもお金というモノ自体が,まず間主観性の産物ではなかったか?

 紛うことなく,お金はお金と認められるが故にお金である(間主観性)。そうでなければ,誰が紙切れと(あるいはビット列と)土地や食糧やらを交換したりするだろうか。

 この意味において,構図は上記の西洋古典学と,どれだけ違うのだろうか。私は些か心もとない。

 

西洋古典学:古典の伝統がある文化→古典を学ぶ→古典による効用がある

経済学:お金の文化→お金に関して学ぶ→お金による効用がある

 

 もっといえば,これはおそらく「金が儲からない学問が虚学」という批判全般に当てはまる。所詮,お金も間主観性の一つにすぎないからだ。

 そもそも,「役に立つ学問」否,「役に立つ知識」全般が強くコンテキストに依存する以上,「実学vs虚学」という軸は軸たりえない気がする。