惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

『本質的なアナロジー』と『表面的なメタファー』;あるいは,なんで予測できないモデルを作るのか。

 社会をシミュレートして理解しようという発想は,言うまでもなく「アナロジー」という思考の一形式に基づいたものである。例をとって説明すれば,ロトカ=ヴォルテラ方程式で,x, y は各々捕食-被食関係にある生物種のポピュレーションを表示したものだが,無論これはかなりの捨象を行った結果であり,現実の生物群集をより直截に表現した Agent-based modeling 等とは一線を画すものである。しかし,ロトカ=ヴォルテラ方程式にしせよ SIR model にせよ,それがかなりの予測力を持つことは,経験的に確かめられている。

 他方で,このような思い切った捨象化はときに歪な結末をももたらす。

 とくに社会統計などで,単純な相関をもとに政策提言などが行われると,とくに悲惨である。具体的な例示としては,このBlog記事 人生の混沌: 見えない因果関係と不都合な人間 が詳しい。

 さて,では適切なモデリングに基づいた予測力のある『アナロジー』(類推)と単に表面的に似ているだけの『メタファー』(比喩)の差は那辺にあるのだろうか?

 なお,アナロジーとメタファーは,単にここで便宜的に呼び分ける呼称として採用したにすぎない。一般的な語法ではないので,注意されたし。

 

 極論すれば,この差は「事後的にしか見分けることはできず,予測力を持つのがアナロジーで持たないのがメタファーである」という,ややペシミスティックかつトートロジカルな結論を先に述べたい。

 さて,ではなぜそのように私は考えたのか?

 まず,予測力のあるモデルを組み立てるには,当然だがモデル対象となる事象を十全に理解している必要がある。謂わば,その系を記述するのに必要十分な変数と変数間関係を全てピックアップできているという条件が必要だ。しかし,「十全に理解している」とはどういうことだろうか?

 まず,モデル対象の文字通り『すべて』を理解することはかなわない,という事実を認めるべきだと思う。なぜ全てを理解できないか? 単に,次元(変数の個数)があまりに膨大であるからだ。水素原子一個というごく単純な系ならいざ知らず(それでも物理学者は相当に手こずったと思うが),それが生命や社会といった系になってみよ。否,ありふれた磁石(のパーコレーション)でさえ,未だに統計力学では尽きせぬ探求の対象たる有り様だ。

 この状況下で,「私は当該の系を十全に理解した」と主張することがいかに難しいか。

 そういった中でシミュレーション・モデルを組んだとして,それが予測力を持つか否かは,実地に予測することでしか立証しえない。

 そもそも,シミュレーション・モデルはある事象に対する我々のメンタルモデルを明示化したものであると考えることができる。我々の精神のどこかにあるモデルである以上,それが現実世界と必然性を以てカップリングしていると考えるのは,いささか楽観的にすぎるというものである。

 以上の理由から,上記の結論を得られる。

 では,事前に予測力の有無を判別できないとすれば,なぜ我々はシミュレートし/シミュレーション・モデルを組むのか。

 私なりの答えを用意するならば,「構成論的手法」を挙げる。

 つまり,シミュレーションは予測を目的とした『手法』ではなく,むしろシミュレーション自体が『目的』であり,シミュレーション・モデルを構成することで,我々は当該の系についての知見を深めうる,ということである。もう少し具体的な話をすれば,ここに一人の旧石器時代人がいるとしよう。彼は,石器作りを学びたいと思っている。さて,運良く師匠にあたる人も見つけられた。彼が石器を作るスキルを学ぶにあたり,効率的な方法はどちらか?

1. ひたすら,師匠から石器を作る方法を口伝で教わる。
2.ひたすら,自分で石器を作って師匠に出来を見てもらい,その評価をフィードバックする

 まあ,他にも方法はあるし,極端化した状況だが,そういうことである。

 私が何かモデリングをして,それが「必ず予測力を持つ」と保証することはできない。しかし,そのモデルで予測を行い,それと現実との差異を埋めるように「モデルの方を(重要)」改良していけば,やがて私の系に対する理解は深まる。

 

 この記事は,私の普段から思うところであった,「社会シミュレーションの予測力の低さ」への自分なりの解答であり,また「良いモデルとはなにか」についての管見である。

 なお,アナロジーとメタファーの区別は相当に曖昧なものである点についても,最後に留意を促しておく。