惑星からの逃走線

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丸山眞男vs数理モデル化:あるいは凡人が概念を操作する可能性について

 バーバルな研究で,かつ「論理を追いやすい」著者というのは貴重だ。そして丸山眞男はそうである。

 彼自身の,相当に複雑かつ慎重で,そして膨大な思惟は一見して近寄りたくあるが,しかし実際には「論理を追う」こと自体はこの選集『丸山眞男セレクション』の論考に限っては,そんなに難しくない。たぶん,編者の腕と丸山自身の(異常なほどに高度な)文章力が相俟ったものであろう。

 ところで本来,バーバルな研究に対して数理社会学が持つ利点というのはバーバルリサーチでは必ずしも概念に操作可能性がないとか,あるいは容易に追検証できないとか,に対して数理モデルならばそれができる,という点に求められるのだが,こと丸山に関してはそういった主張も霞む。それは,たとえば「超国家主義の論理と心理」における,コンテンポラリーに日本人は天皇を中心とする同心円状に配置され,天皇からの距離に応じて価値づけされると同時に,天皇自身は神話に淵源する皇統に束縛され,結果として誰一人も「自由な主体」足り得ないことを,同心円中心を貫く皇統という一本の軸に仮託するなどの表現からも,彼の想像力豊かな・同時に的確な表現力を垣間見れる。

 問題は,我々のような数理社会学徒にとって,このような鋭い嗅覚と適切な論理構成は,はっきり言えば脅威的であるという点だ。数理モデルを使う要を,丸山が感じるとは考え難い。

 ひとつ弁明を試みれば,数理モデルというのをある種の『インターフェース』として捉え,それによって高い操作性を与えれば,丸山ほどの才に恵まれぬ者にもある程度(「ある程度」!)は社会に関する思弁を発展させられる可能性は,数理モデルに歩があるかもしれないことだ。

 丸山の優れた諸論考は,もちろん上記のように論理を追うことは可能だし,必ずしも難しくないが,しかし実際にこれを組み立てることは至難といった印象も受けるのだ。

 その点,数理モデルならば,原理的には多少の数学やプログラミングができる者には皆に開かれている(もちろん,それだって相当に少数にしか『開かれて』いないが)。その点をもっとプッシュしていく必要があるかもしれない。

 

追記: