惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

いろいろと書く

 最近、自身の身の振り方とか、自分が何をしたいかについて、考えることが多い。中学生か。

 ただ、私としては真面目に考えているつもりだ。

 

 とりあえず、結論として私は研究者・学者には向いていないと思う。

 体系化された知識、それは専門分野といってもいいかもしれないが、それがない。

 あるのは、断片的で相互に関連のないトリビアルな知識だ。職業として研究を行うことに、やはり向いていないだろう。

 

 そして、自分が何をしたいのか。やはり、こう考えるのは傲岸かもしれないが、「世界を変えたい」という気持ちはある。

 でもそれは、社会起業家になることでも、マルクス主義革命を主導することでもなくて、単に世界という、70億以上の人間が各々の生を持ってひしめく世界という総体に、ただ "+1" していきたい、ということだと思う(レトリカルかつ、知性より感性に訴える言い方で申し訳ない)。

 極端化して言えば、私が生まれて両親が喜んでくれた、それで私の意義というものは完遂されているのかもしれない。だから、それ以上は私のエゴイズムであり、自己満足なのだ。でも、敢えてその先をここには書こうと思う。

 まず、両親に喜んでもらうことは、これはこれで途方もなく重要なことだが、しかし両親も人間、つまり死すべき者であるということを、思い起こすべきではある。

 要は、私の家族がいなくなったとき、私の存在意義はどこにあるか、という問題である。弟は私より長生きするだろうし、してほしいと願っているが、彼は彼で家族を持つだろう。老いた兄の面倒を見る義務を彼は負っていない。

 大多数の人は、自分も結婚し、子どもを生み、そしていつかは孫の顔も見て、そして死んでいくことに、意義を見出そうとするのではないだろうか。

 ただ、私は結婚できる望みもないし、私は私なりの生きる路があると信じたい。

 何が、人間にとって幸福だろう?

 人間は不思議なことに、「自分を必要とする他者を必要とする」生物である。私も、他者に必要とされることを必要としている。そして社会と繋がっていたい。

 蛇足だが、他者に必要とされる、という際の『他者』とは、「自分の想像力の及ぶ限りにおいて、自分と入換可能な存在」かなあ、とか思ったりしている。これはもうちょっと考察したい。

 

 いろいろ悩んでいるな、俺。

 でも、一応やってみたいことなどもある。たとえば、実をいうと個人図書館をつくってみたい。本は書き込み可にして、それをメディアとして人が繋がるような。

 ただ、マニアックな図書館になるだろうな。実現できたとして。

 

 あと、物語とプログラミングとの関連とか、ゲーム作りとか、もし軌道エレベータやそれに類するものができたら地球の社会・経済はどうなんのとか、細々したことは考えている。繋げるヨスガをまだ見つけられていないが……。

 

 こんなことを、今日、2015年7月26日時点で考えている。一年後、このBlogを見ることがあるとして、そのときの私は何を思うだろう。そして、何をしているだろうか?