『癒える』なること
以前、こんな記事を書いた。
それから少し経ち、改めて癒やしとは何かについて考えてみたい。本当に自分は『治った』かを問う、少し危うげな作業だ。
なぜこのトピックを考え始めたかといえば、中井久夫先生の『世に棲む患者』をパラパラとめくった時に、こんな文章に行き当たった。
あれほど大きな体験を経たからには、人柄が全然かわらない方が不思議である
世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)
- 作者: 中井久夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/03/09
- メディア: 文庫
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この言葉自体は、スキゾフレニアという病名を名づけたオイゲン・ブロイラーの息子で自身も精神科医であったマンフレート・ブロイラーのものであるらしい。
それと、私の友人でやはり困難な状況にある人がいて、彼の言葉が脳裏に引っかかっていたためでもある。
それは、彼が『元に戻る』ということはない、という旨の発言だった。
つまり、癒える、病から快復するということは、病前に戻るということではない――ポジティブな意味でもネガティブなそれでも。
前掲書で、中井はこうも言う(要約)
病を得たのは病前に何らかの原因があったからであり、また元に戻っては再発を促進するようなものだ。
その通りであると思う。そういう訳で、病からの快復ということは、たぶん『元に戻る』ことではない。もっと強い主張をすれば、『癒やし』全般がそうであろう。
では、何が快復なのだろう。何が癒やしであろう。
トートロジカルになるが、やはり「自分で治った」と『自然に』思える時、それは快復であり、治癒ではないだろうか。
そういう意味で、私は『治った』
そういう意味で、「病気を治すのは『自分』」なのである。
しかし、問題である部分は『自然に』という箇所であり、病者は自然に自己の健康を認識できないがゆえに悩み苦しんでいるはずである。
そこに、周囲ができることがある。
誰かが懊悩する時、たとえば「お前の自己責任である」などと言うことは論外である。しかし、同時に「そう、君は悪くない。Xが(Xには、苦悩する人の親や、生い立ち、いじめてくる人間、そういうものが入ることが多いようだ)全て悪い」といっても、さほど抜本的な解決にはならない(それでも自己責任呼ばわりするよりは害が少ないと思うが)
この場合、たいていは「誰かを責めても解決にはならない」、ではどうすればいいのか。
最善は、やはり「待つ」ことであると思う。ただし、いつ当人が快復しても良いように、彼/彼女の前途にある障害物をそっと取り除く。
これは、周囲にとっては多大な負担を強いる方法かもしれない。
しかし、やはりこれが最善ではないだろうか。
病者に対して「『治る』ことを強いること」はほとんど耐え難いまでの苦痛である。そして、それは往々にして逆効果を生む。
待つことは、最善であり、そして唯一の途であろう。
だが、現実問題として待ってばかりいられない、と言ってしまう周囲の人も多い。だが、それは社会の問題であって、病者や「周囲」の問題ではない。
「待てる社会」は、やはり待望されるところであろう。