惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

なぜ、我々はシミュレーションが現実を反映していると思えるのか?

 シミュレーションは、特にコンピュータ・シミュレーションに限れば、それは本質的にはビット列であるはずだ。

 では、なぜ我々はシミュレーションが現実を――たぶん、0と1だけで表現はできるだろうが、おそらくもっとずっと手の込んだ実装がなされている系を――反映していると、無邪気に信じ込めるのだろうか? 一つ、検証するだけ検証しても良いのではないだろうか?

 

 一つ考えられるのは、シミュレーションと現実には(実はかなり一方向的な関係かもしれないが)ある種の『翻訳可能性』のようなものがある、という解答だ。

 翻訳可能性というと仰々しいかもしれないが、要はある系があって、それには変数あるいはコンポーネントがある。そして、その変数同士の関係(たとえば連立微分方程式で表現されるような)が「普遍文法」のようなもので、故に互いを同相と見れる、ということだ。

 しかし、本当に翻訳可能性はあるのか、それはなぜ生じているのか、については、私は答える術を持たない。

 また、気象シミュレーションなような、微分方程式などを解いていくシミュレーション(たぶん今ではもっと他にいろいろあると思うが)ならまだ分かりやすいが、社会シミュレーションのようなシミュレーションでは、かなり解釈の余地も大きくなってしまう。

 たぶんこの「解釈」などは、シミュレーションと現実のギャップを強く示唆しているのでは、とも思う。

 まとまりのない文章になってしまったが、しかしシミュレーションは哲学的考察の良い対象になりうる気がした。