惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

現代史・近代史はともかく、現代の社会を考える上で中世とか増してや古代史を学ぶ必要ってあるのか?

 といったようなことを考えてみたい。

「賢者は歴史に学び、凡人は経験に学び、愚者は何も学ばない」

 という警句にある通り、歴史に、即ち自他を問わない過去の経験に学ぶのはとても良いやり方であるというのは論を俟たない。

 だが、(非常に卑近な意味で)歴史を役立てようと思えばやはり「効率的な学び方」はあるのではないか、とも思える。

 要は、テスト範囲を勉強した方が効率が良い、というのと同レベルの話である。

 とすれば、どんなテストで範囲はどこからどこまでか、である。

 それぞれの立場から、試みに立論してみよう。

 

・学ぶ価値があるのはせいぜい近代史までで、中世史以前はやらなくて良い

「社会的に意味のある問題を考える時に、当然その歴史・背景を知る必要はある。しかしながら、それに関連したことさえ知れば良いのであって、必ずしも全てを知る必要はない。そして関連する歴史となるとせいぜいが近代史までである」

 

 これは一見して尤もであるが、反論を考えることは可能だ。

 

・歴史を学ぶ上で、古代史や中世史、場合によっては先史時代も学ぶ価値がある

「歴史は連綿と過去から現在、未来に至るまで繋がっている。直接的には関連がなくとも、古代史や中世史は近代・現代を形成する前提であるから、学ぶ価値はある」

 

 こういった反論をなされることが多いと思われる。ただ、この反論にも弱点はあって、以下のような再反論を考えることが可能だ。

 

「それは究極的にはそうだが、現実的には理解するべき主題による。ある程度の前提条件が分かっていれば、それ以前のことは無視せざるを得ない。なぜなら、仮に前提を延々と遡れば『論理の無限背進』に陥る恐れがある」

 

 プラグマティズムの観点からいえば、これは中々強力な反論である。実際、古代史が必要ならば(あくまで理論的にはだが)更に先史、人類以前、となり最終的には宇宙の開闢まで遡る必要さえ出てくるかもしれない。

 なので、では「考えるべき主題」とは何か、という問題に帰着しそうだ。

 これは個々の立場によって変わるので、これ以上に詳細な立論は難しい。難しいが、敢えてやってみよう。

 つまり、数多ある立場の中には「古代史や中世史の理解を是非にも必要とする問題」があるだろうか?

 

・そういった問題は存在しない

「基本的に古代史などは好古趣味の対象であって、真にアクチュアルな必要性といったものはない」

 うーん、これはちょっとトートロジカル。考えれば、そもそも「○○といった立場は『ない』」というのが悪魔の証明である。

 

・そういった問題は存在する

「必要とする問題は存在する。例示すれば、人間の認知構造などを理解するには当然、人類の進化史的な視点が必要とされる。それには最低でも数千年、あるいは数万年のタイムスパンで考える必要がある。また、環境問題や人口学といったディシプリンでは当然のように文明史的観点を必要とする」

 

 と、いったような立論をすると中世史・古代史を必要とするような「場合もある」という結論を仮に得た。

 もちろん、立論の仕方は他にも無数にあるだろうから、それぞれ異なった視点を得られるだろう。

 これは一つの思考実験ないしはちょっとした手慰みとして受け取っていただきたい。