惑星からの逃走線

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社会シミュレーションは「役立つ」か

タイトル通り。

社会シミュレーションは、中々将来の予測に使うことが難しい。

なぜなら予言の自己成就といった形で、予測それ自体が社会のこれからの挙動に影響を与えうるからである。

扇動政治家ならばそれで良いかもしれないが、残念ながら科学ではそうでない。

いや、予言の自己成就ならば「成就」しているのでまだ良いかもしれない。

実際には、人間である以上裏をかきたいという欲求もあり、また新技術の登場は予測が極めて難しい(後者の要因は、カール・ポパーが歴史法則の定立は不可能であると論じた根拠の一部でもある)。

このような諸々の理由から、人間社会の中長期的でかつ定量的な予測はかなり難しい。

今のところ、それを可能にする目処は立っていない(と思われる)。

そして、困ったことにはシミュレーション/モデリングという技術は多くの場合予測に使われる技術だ。

 

では、社会シミュレーションはシミュレーションゲームに毛が生えた程度の、知的遊戯にしか過ぎないのだろうか。

もちろん、私がこの文章で主張したい立場は「否」であるが、この際に主に3つの論拠から反論を試みたい。

  1. まず、金融市場のように裏をかく必要がなく、また新技術の登場を考える必要がない程度のタイムスパンを持つような社会現象を考える場合には充分使える。かなり強い前提条件ではあるが、しかしそういった場合も多々あり得る。
  2. 未来を予測することは無理でも、過去の社会を理解する際には役立ちうる。具体的には、史資料という「点」をつなぐ「線」「プロセス」を理解する際に大いに有用足りうる可能性がある。
  3. よりメタな視点に立てば、そもそも「なぜ社会は予測できないのか」を理解する上で役立つ可能性がある。少々思弁的かもしれないが、自然界において人類の形成する社会だけが所謂「数理的アプローチ」を拒絶し続けている理由は必ずしも明らかではない。社会をモデリングし、それを使って「実験」することで、その糸口は掴めるかもしれない。

 

まずは、1. について。こういった形態で使われることを、多くの社会シミュレーション研究者は想定している感触がある。

たとえば、建物内で緊急事態が発生した時にどう建築物が設計されていればスムーズに避難可能かをシミュレーションで考えることができる。

 

次に2. であるが、歴史学者は何らかのスキーマに基いて史資料を解釈する。

彼らも学者であるので、当然仮説を立て、それと事実(史資料)が合致しているかを見て仮説をテストする訳である。

社会シミュレーションが役立つと思われるのは、この仮説形成の部分においてである。個々の史資料を矛盾なく解釈するのは、必ずしも容易ではない。そこで、Inverse Simulation 等の技法を使ってそれらの間を補完する、という発想が出てくるわけだ。

なお、Inverse Simulation についてはこの論文が好例であろう。

歴史をシミュレーションする—中国における科挙・家族・文化資本の関係

個人的にはこの2. のような方向性で自身の研究を進めたいと考えている。

 

最後に3. であるが、これはまだ単なる可能性の段階に留まっている。

しかし、非常に重要な問題に関係している。

即ち、人間とそれ以外を分かつものは何か、という哲学上の馴染み深い問題である。

人間社会に対する数理的なアプローチは近年ようやく成果を出し始めたとはいえ、それでも容易には登攀可能な峰とはいえない。

それは何故だろうか、という問いの立て方は必ずしも不自然ではないだろう。社会シミュレーションは、社会に対する「実験」を可能にする。

それを通じて、人間を人間足らしめるものに迫ることも可能ではないだろうか。

(今一つ纏まらなかったので、後日より詳細に考察したい)

 

もちろん、今回論じた点で社会シミュレーションの応用可能性が尽くされた訳ではないことを付記しておく。