情報と社会
情報というものと社会という現象の関係について考えてみたい。
単に勉強不足なだけかもしれないが、情報や知識と社会についてかなり深い考察をしているのはポパーの「歴史主義の貧困」くらいだ。
これも、正直な感想として、かなり思弁的な方向に偏った議論であり、正しい議論だが必ずしも切り口はこれだけではないだろう、と思う。
追記:
実際には大事な大事な本を忘れていた。
グリックの「インフォメーション:情報技術の人類史」である。
これはスゴ本。なんで忘れた。
- 作者: ジェイムズグリック,James Gleick,楡井浩一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/01
- メディア: 単行本
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さて、実を言うと私の中では「情報と社会」というのはかなり大きなテーマになっている。
人類は(というか生物は)開闢以来、常に情報と共に生きてきた。社会は情報から大きな影響を受け、社会は情報を産出し続けてきた。
この螺旋状のループの中で、どう社会と情報が「共進化」してきたかに、強い関心を抱き続けている。
これを考えるためには、情報という言葉を詳細に定義し、それに下位区分を設ける必要がある。
まず、情報(Information)は「何らかの主体(人間でもその他の生物でもコンピュータでも)がアクションを起こすための契機である」と仮に定義する。これは私が勝手に考えたものなので、ご注意。
次に、知識(Knowledge)はこれも仮に「認識の結果として得られた情報で、ある主体の内部に保持されるもの」と定義しよう。
そして記憶(Memory)は「個体/社会を問わず、時間的に長期にわたって保持される知識」とでも定義しておこう。
これらの定義は必ずしも一般的でなく、また今後変更され得る。必要に応じて適宜新しい概念を付け足すこともあるだろう。
では、これからは特に人間の社会について考察してみよう。
因果関係として情報が先か社会が先か、であるがこれは情報が先であろう。
社会を形成するには複数の人間がコミュニケートする必要があり、それには情報が必要である。
さて、しかしながら一度社会が発生すれば社会が情報を産出する。
個々人が情報を認識から獲得し「知識」が発生する。
次に、知識のうちで有用と思われたものがセレクションされ、記憶となる。
特に有用とされた記憶ならば、社会全体に広まり「伝統」とでも呼ぶべき情報として保持されたことだろう。
さて、ここで必ずしも自明でない点を私を感じる。
人類は様々な面で指数関数的成長を見せたが、おそらくはその陰に情報の自己増殖的側面が潜んでいるという仮説は立てることができる。
これは先に述べたようなプロセスを経ていると考えるのが最も自然な訳だが、しかし個々人の知識獲得が徐々に蓄積されるのでは、指数関数的というより一次関数的な増殖しか望めない。
なぜだろう。
(また書き足します)