惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

神の視点と人間という存在者

 西川アサキ氏という,かなり恐るべき著者がいる。

 

魂のレイヤー―社会システムから心身問題へ

魂のレイヤー―社会システムから心身問題へ

 

 

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)

魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)

 

 

西川アサキ - digital-narcis.org

社会システムにとっては、機能としての人間=「使えるヒト」以外は必要ない。一方、個体としてのヒトには、体験=機能ではないもの、は恐らく重要だ。

 

 これは,個人的には最も鋭く社会科学と人文学の差異を抉った一文であると思われる。

 社会科学は,ある種の『神の視点』のようなものを要請せざるを得ない。それは,謂わば社会科学者という人間が一時的に自身が人間であることを忘れて成立する。シミュレーションや,数理モデルの中では――あるいはもっとバーバルな社会科学研究の中でも――研究者は個々人の機能にのみ着目し,それらが織り成すマクロな系を観照することを指向する。

 社会科学の研究の上で,人の生死を含む営為は全て(まあ,本当に全てとまでは言わずとも大半は)計量可能で比較可能でなくてはならない。個々人に喜びと悲しみがあるとしても,それは効用という形で計量可能だし,『私』の悲しみと『あなた』のそれは,交換可能である必要がある。

 他方で,我々は日常感覚からそれがどれだけ不確かな措定であるかを知っている。考えてほしい,あなたは私の寂寥や満足を推し量ることができるだろうか? 少なくとも,私はあなたのそれを不完全にしか推し量ることができない。人文学は,初めからその『不完全さ』を引き受けた上で敢えてそれに挑もうという,人間らしい・しかし絶望的な試みであるように,私には思われる。

 今日の午前に少し書いたBlog記事は,社会科学者がかなりの頻度で人文学を軽視しがちな印象を述べたものだった。

 

kaito-y.hatenadiary.com

 

 もしかすると,この現象が仮に実際あるならそれは社会科学特有の『神の視点』に起因するものかもしれない,とは思う。

 もちろん,社会科学は確実にその方法論を以て様々な人の役に立てる(し,実際にとても役に立っている)とは確信しているし,また人間の学の中に社会科学的手法が通用する部分(≒計量可能性と比較可能性を持った部分)を増やしいくべきとも思う。しかし,我々がつまるところ人間であるという事実を無視するわけにはいかない。

 こう考えていくと,『心身問題』という蒼然とした哲学上の難問も,けっこう『私』と社会という関係性の中でキーコンセプトたりうる,アクチュアルな課題であるように思われる。個人的なことを蛇足ながら附言すれば,人文学と社会科学の間を(すなわち,神の視点と人間という存在者の間を)自由に往還できる,そういう研究もしてみたい。難しいが……。

社会科学者の人文学に対する観方

 どうも,学問として探究対象が被っているという事実にも起因するのだろうか,社会科学者の人文学に対する意識って少し歪な部分があるような気がする。具体的には,

  • 社会科学の方が,数理的厳密性において優れているとして社会科学の優位を信じている社会科学者が多い印象。たしかに,数理的な厳密性は社会科学の方がずっと高いが,人間の精神や行動は必ずしも数理的厳密性を以てモデリングできるとは限らない。無論,数理的厳密性を以てモデリングできる部分は全てそうするべきではある。
  • 社会科学は実学であり,人文学は虚学であるという考え。たしかに多くの人文学は金銭的な成功をもたらしてはくれないが,価値というのは金銭的なものだけではない……非常に通俗的な言い方ではあるが。

 といった印象を受ける。

大事な大事な(天空への)アタックチャ〜ンス

 ふと思ったが,もしも今最も人口増加が甚だしいアフリカや南アジアといった地域でも人口ボーナスが人口オーナスに転じたら,どうなるであろうか。

 資源の消費はある程度抑制されるだろうから「環境には優しい」のかもしれないが,要は地球全体が今の日本とか韓国みたいなことになるという話である。うーん,ぞっとしない。

 他方,人口が増え続けたら増え続けたで困るのはもちろんなのだが……。

 こういうとき,SF脳は「じゃあ宇宙に進出しようぜヒャッハー」な発想に至るのだが,実はもしかして「21世紀前半〜中葉が人類が宇宙に進出する最初で最後のチャンス」なのでは,とか思ったりする。

 仮に人口が増え続けたら,まず間違いなく資源を食い潰して宇宙進出どころではないだろうし,他方人口が減少してしまった後ではマンパワーの方がむしろ足りないような気がする(全くの印象論で,もちろん実際にはそんなことはまるでないのかもしれないが)。そうすると,アフリカ辺りの労働力にはかなりの余剰があり,かつ資源もまだ多少は残っている今しかないような気がする(気がするだけだが)

 2020年くらいまでに,なんかスゴい指導者が現れて軌道エレベータ建設の音頭を取ってくれないだろうか(他力本願な上に民主主義を愚弄する発言)

 

追記:

 むしろ,問題は資源の枯渇というより,不平等感かもしれない。分配するためのパイが大きくなり続けている間は,人々はあまり不平等感を感じない。しかし,シュリンクしていく資源を上手く分配していこうとしても,たぶん様々な人が不平等感を持つのではないだろうか。そうすると,もはやパイを増やすのが手っ取り早い。

「人々の不平等感を紛らわせるため,ひたすら消費資源量を増やす」というのも,なんだか芸のない話だが……。

頭の良い人・理想を持てている人

 頭がすごく良い(良すぎる)がゆえに,夢というか有り体な言い方をすれば誇大妄想のようなイマージュを持てない人がいるな,という印象がある。言うならば,頭がよくかつ現実的な判断がとても上手いがために,理想とか思想のようなものが持てない,と言うことができるかもしれない。むしろ,彼ら自身はそういったものはリアリスティックな判断の邪魔だから,持っている方が有害だと思っているかも。

 私は残念ながら,頭がよくない。記号操作の一部は多少できなくはないが,それもごくわずかだし,もっとできる人は沢山いる。しかし,おかげ理想乃至思想を持てているのだと,半ば言い訳めくが思っている。

「人類を滅ぼそう」は解決策だろうか?(たとえ,それが冗談であったとしても)

 よく,twitter等で社会的な問題や価値観同士の摩擦などが問題になったとき,ツイッタラーたちが冗談半分に「人間がいるから全ての問題が起きる。じゃあ,人類を滅ぼせば全て解決ではないか!」などと言い合っていたりする。

 これは一見した限り,論理としては全く正しい。実際に,問題というのは人間がそれを認識する限りで問題であり,人間がいなくなればそもそも問題として見る者がいない。ならば,人類を滅ぼそう,は「全ての」問題の抜本的解決たりうるだろう。

 

 しかし,私はこれに対して,一抹の違和感を感じる。もちろん,こういった発言は罪のないジョークだし,それらを一々あげつらいケチをつけるつもりもない。

 しかし,どうしても自分の違和感がそう思ったところで解消できないのだ。これについて,少し考察を加えたい。

 

 真っ先に思い浮かんだのは,私の中にある「過去への敬意」という感情だ。私は,先人たちの人間としての過ちと栄光とに,私なりに尊崇の念を抱いているつもりだ。こういう人間にとっては,そもそも「人類を滅ぼす」という行為自体が,先人から継受した灯火を絶やす行為と看做す他なく,結果この種類の言説に強い反発を覚えるのかもしれない。

 同時に,この人類の歴史というのは,試行錯誤の歴史そのものといって過言でない。ここで顕著なのは,「問題が発生する→アドホックな対処を行う→アドホックな対処そのものから新たな問題が発生し……」というループの存在だ。重要なのは,ここにおいては「問題の発生が新たな問題」を生じさせると同時に,問題の発生はイノベーションの連鎖的な発生をも意味しているということだ。この観点に立つとき,「問題への対処(≒イノベーション)はアドホックさと抜本性のみならず,同様に更なるイノベーションの発生を見込めるか否か」でも測られるべきだという判断基準を持つことは,私には比較的自然であるように思われる。

 さて,この基準に照らし合わせて,「人類を滅ぼす」という『抜本的解決』は,著しくバランスを欠く。新たなイノベーションの可能性を全て絶っているので,当然といえば当然である。私が,ああいったちょっとしたジョークに対し強い反発を覚えるのは,こういう心理が根底にあるからかもしれない。

大衆を「自然」と看做す為政者の発想と社会シミュレーション

 為政者は,多分に大衆(もっと有り体にいえば被治者)を一種の『自然現象』として看做す思考乃至発想が,あるように思われる。丸山眞男によれば江戸期武士階級などは如実にそうであったという。

 さて,具体的に被治者を自然と看做す発想は,どういったものか。例示するなら,

  • 被治者を羊に統治者を羊飼いに見立てる。つまりは,被治者というのはある意味で一般の動植物と変わらず,統治者の適切な指導が必要である。
  • また,時として被治者は統治者に対し反抗を企てるが,それは洪水とか地震といった自然災害に近いものとして統治者は捉える。もう少し良い例を挙げれば,むしろイナゴの大発生に近いだろうか。
  • また,統治者と被治者は生来的にその種を別としている,というのも一類型として考えられる。インドのヴァルナ/ジャーティは,そういった『種別』のカスケードとして考えることができる。

 これは,私の臆見ではたぶんある程度の規模を持つ社会の統治者層にはかなり普遍的に見られる現象であると思われる。というのも,人間の思考として「『奴ら』は蒙昧だが,『我々』は文明人である」というものに基づく分類だと考えられるからだ。

 さて,近代的な意味での民主制が発達し,それによって主権を国民が握るようになった後,このような思考法は当然,一旦は後退しただろう。少なくとも表面的には。

 ただ,仮に先ほど推測したように被治者を自然現象と看做す思考法が,それなりに一般性を持つものだとすれば,それが民主主義国家のエリート層に発達してもおかしくはない(非民主的な社会に較べればずっと発達しづらいとは思うが)

 そしてこのとき,仮に近代的な科学という思考法が,『大衆という自然』に適用されれば,それは慄然たる結果を招くのではないか。個人的なことに引き寄せて言えば,私の学ぶ社会シミュレーションというディシプリンは「人間を自然現象と区別しない」でそれを理数的に考えよう,という側面があるが,もしもこれが「大衆を自然現象と区別しない」で考えよう,ということになったとき,社会シミュレーションは権力者の自己正当化のために使われる「無花果の葉」と化すかもしれない。

 その辺りの微妙だが重要な線引きを,常々留意しておきたいものだ。

バナバ人という民

ci.nii.ac.jp

 

 こういう論文を偶然見つけた。

 バナバ,という島が,現キリバス共和国にある。そこは良質の燐鉱石を産出したことから,悲劇が始まった。以下は,主に当該の論文を参考にした,私なりの解釈も含んだバナバとその民の歴史だ。

 もともとこの島に住んでいた人々,今ではバナバ人と自称している人々の,本来の暮らし向きがどうであったかは,今となっては確かなことはわからない。ただ,少なくとも昔からその島は彼らの土地であったし,今もそうであると彼らは主張している。これは事実だ。

 さて,1900年に島に白人(ニュージーランド人の技師)がやってきた。彼は,近隣のナウルで大量の燐鉱石が産出することをしっており,またナウルと地質的にバナバが似ていることに気づいて,一山あてようとやってきたのだ。そして,燐鉱石を発見するや否や島のチーフ(の一人)を騙し,燐鉱石が何であるか,これからニュージーランド人が何をしようとしているか,文字も読めないそのチーフに対し契約書にバツ印を書くようせまり,まんまと成功する。

 そして,燐鉱石の採掘が始まって,徐々に島は荒れ果てた姿に変わっていった。

 たくさんの外部からの労働者も導入され,バナバ人らは少数派になった。

 最終的にイギリス人は(言うまでもなくイギリスはニュージーランド宗主国だ)土地の強制収用を行い,バナバ人を追い出してしまった。

 

 やがて,第二次世界大戦が始まった。日本軍がやってきて,バナバ島も占領された。ヨーロッパ人は先に逃げ,残されたバナバ人や労働者は,日本軍に些細な理由で殺害された。そして1943年,日本軍は住民をバナバ島外に追い出した。

 やがて戦争が終わり,人々は故郷に戻ることを望んだ。しかし,イギリスはまたしても卑劣を発揮した。「日本軍の爆撃で島は荒れ果ててしまった。もう戻ることはできない」

 嘘である。単に,燐鉱石の採掘を円滑に行うための詐欺以外ではなかった。そして嘘に騙された人々は,はるか2400kmも離れたフィジーのランビ島への移住を余儀なくされた。移住先では,異なる環境のために死者も出たという。

 さらに,やがてキリバス共和国が独立しても,キリバス政府はバナバ人をひとつのエスニックアイデンティティとは認めなかった。

 

 以上が,全てではないにせよバナバの民の苦難の概略的なものである。イギリス人による詐取,日本軍の暴戻,そしてキリバス政府の黙殺,もうひとつ加えるなら,同じく燐鉱石で一時期は繁栄を極めた(今は荒れ果てているが)ナウルへの羨望,それらの陰で,こういった人々がいたことを,牢記している義務を,個人的には感じた。