惑星からの逃走線

読書記録や研究上で思いついたこと、日々の雑感など。

「今を生きろ」への反問

 のっけから私事だが,私は自身の生家が火災で失われるという災禍に見舞われたことがある。この時,多くのアルバムやフィルム,思い出の品も同時に消えた。今思っても,胸裡に痛みが走る。

 あの,いかにも戦後といった風体の家はもうない。小さいが木々が繁茂していた庭,それらへの水遣りに使っていた井戸,急傾斜な階段,日当たりの良いベランダ,くすんだ土壁,戸を開けるときのカラカラという音,祖父が吸う煙草のためについた,妙に懐かしい感じのヤニ臭さ,狭い空を眺めて過ごした縁側,それらは現存しない。現存するとすれば,私の脳裏においてのみである。

 人は言う,「人間は過去に拘泥すべきではない,未来を見据え今を生きるべきだ」と。しかし,私はあの追憶を手放すことが,当分できないだろう。あの家は私の文字通り根,root であるからだ。自ら根を断つ樹木を,あなたは見たことがあるだろうか。私はないが,たぶんその木は枯れるだけだろうと思う。私には「過去への敬意」があり,それは私にとって精一杯の自己肯定なのだと思っている。過去を敬うことは,単なる前例主義ではなく,自己を内省し,その生と生の連続性を再確認し,来る明日を迎えるにあたって必須である。積極的な現在は,常に昨日との徹底的な対決の上に築かれる。決して忘却の上にではない。忘却の上には,さらなる忘却が積み重なり一体化していくだけだ。「過去に対し敬意を以て立ち向かうこと」

 だが,同時にこうも思う。「私は生家がまだあって,思い出品も沢山現存していたならば,こうも過去に対して敬意を払えていただろうか」と。

 たぶん,私は過去など知らん顔で刹那的な(もっとも今も十分刹那的だが……)生き方をしていた気がする。それは,刹那的であることに無自覚であるゆえに一層の悲劇であったろうとも。

 

 ところで,昨今では「明日ではない,ましてや昨日でもない,『今』を,今こそを生きろ」みたいなメッセージが氾濫している印象がある(あくまで印象だが)

 私は,無責任にもそういったメッセージを送信している者に問いたい。

 

「お前たちは今を生きろというが,それでは人間と動物はどう違うのか」

「今が満足なら明日がどうなっても良いという態度にしか私には見えないが,ならば先人の遺産といずれ生まれ来る者たちへ引き継ぐものへの責任を取っていないのではないか」

「もっと言えば,人間を人間たらしめるは社会的な記憶であり,生命を生命たらしめるは個体の記憶である。あなたたちのメッセージは,正直なところ人間を畜生どころか機械以下に貶めている。この批判にどう答えるのか」

 私は,ごく小規模ながらもひとつの悲劇を経験した。その経験から言えば,「今を生きろ」などというのは傲慢だし欺瞞だ。人間は過去の遺産の上にあり,未来を支えることでその価値を見出すということを,私は悲劇を通じて学んだ。それをしたり顔で否定してみせる者を,私は許せない。

 我々は,過去に敬意を払いつつそれと対決し,以て明日へと向かうべきだ。

 

蛇足:

 そういえば,何の因果か今は故あって記憶の研究をすることとなった。これを読んだ方には,是非あなたの過去を大切にしてほしい。その上で未来に向かってほしいが,もっともそれも私の驕りだ。人がどのような態度で生きても,結局はその人の自由なのだから。しかし,私は過去を大切にしたい。

「文化的破局」という言葉がある。強大な文明に接した弱小な民族が,その文明に圧倒されて自らの文化的伝統を忘れ,頽廃に傾く現象を指したものである。これは,個人水準でも起きうることではないかと,個人的には思う。

「過去の精算」は,忘却ではない。牢記した上での,その過去と決着をつけることであるべきだと,私は思う。

 カヴァッリ=スフォルツァという,自然人類学の研究者がいる。彼の言うところでは,人類の文明は『累積的文化進化』の産物だという。上記の議論とは水準が異なるかもしれないが,しかしやはり記憶の上にイノベーションが築かれるのではないかと思う。

史実vs史観:あるいは『無限ループ』から脱出して明日を迎えるには

 丸山眞男がアツい(俺の中で)

 なぜアツいかというと,彼の『史観』のようなもの(私の読んだ限りでは,直接にそういった言葉を丸山は使っていないが)が,私にとって新鮮かつ自分の中の模糊としたものを明晰的に言語化してくれていたからだと思う。

 彼の日本政治思想に関する観点で,私が理解するところでは,「日本では歴史が蓄積されない(されにくい)ので,ために外来思想に対して同じような反応を繰り返している」というものがある。曰く,戦国期のキリスト教到来時と同じ構図が,明治大正期にも反復されたという。

 

 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

 

 

 謂わば,本邦は昔より椹木野衣が言う「悪い場所」(歴史的蓄積のない文化)であったのだ。もっとキャッチーに言えば,我々日本人は『無限ループ』としての歴史を生きている。あるいは,昔から日本はポストモダンだった。コジェーヴの観察のように。

 

 

日本・現代・美術

日本・現代・美術

 

 

 

 ここで私が思い起こしたのは,蔀勇造『歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり』にあった,「『歴史』という文化を持つ民族と持たない民族」の別である。前者の代表は,ギリシャ・ローマといったヨーロッパ文明や,イスラーム,中華文明圏であると論じている。また,後者に関してはインドがある。

 インドというと悠久の歴史を誇ると思われがちだし,また実際にインダス文明などは世界最古級であるが,しかしイスラーム文化に影響されるまで,インドは「神話」の豊穣を誇っても「歴史」「史書」の類は散見されず,一定以上の深度を持つ過去は一息に神話世界に飛んでしまうという。言ってみれば,歴史というのは『文化』であって,必ずしも全人類に共通した生得的性質ではないのだ。

 

 

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

 

 

 

 とはいえ,過去に対する何らかのメンタルモデルを有さない文化というのは,考えにくい。これに関して,かつて保苅実は卓越した慧眼を示した。彼は『歴史』というものを「文字に書かれた歴史」に限定せず,「過去に関するメンタルモデル」として定義しなおし,その上で「歴史を有さぬ民という概念は放棄されるべきである」と明確に述べた。

 

 

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

 

 

 もちろん,我々日本人にも,「過去のメンタルモデル」という意味での歴史(≒史観)はある。ところで丸山に立ち戻れば,彼は日本人のメンタルモデルの弊として,「既成事実への屈従」がある。彼は,(私の解釈では)日本人は過去≒既成事実を動かしがたいものとして見,またそれに意識的・能動的に働きかける傾向に乏しいと主張している。これは日本人の『史観』が歴史を人間の制作物としてよりある種の自然・運命として見ていることを示す。これの問題点は,一定以上の過去は完全に動かしがたく,また修正も効かないものとして看做すことだ。故に,人間はまだ比較的,事態が修正可能なレベルでの過去に囚われ,必然に近視眼的となってしまう。従ってこれ故に日本人は「歴史を蓄積できない」(というのが私の解釈である),同時に歴史蓄積がないので,歴史はいきあたりばったりな偶然の集積となり,より人間の諸力が及ばぬと看做されてしまう。

 

 過去の蓄積がないことと,既成事実への屈従は表裏を成す。

 さて,では過去を蓄積して,長期的視点を得るにはどうすれば良いだろうか? 要は,日本人の過去に関するメンタルモデルたる史観を改革するにはどういった方策が考えられるか?

 今,我々は端的に言って「記録としての過去」を(他の先進国や大国を構成する民族ほどには)活用していない傾向がある。必要なのは,陳腐な言い方をすれば「過去に向き合う」こと,そしてそれ以上に「過去と徹底的に対決してそれを超克すること」であろう。同時に,我々の現代は後続世代の昨日である以上,アーカイブなどの記録保存に心を砕く必要もある。そういった方途が,長期的には「無限ループ」を終わらせ,真の意味での明日を迎えるのに必要とされよう。

発見的なアートと解決的なテクノロジーと記述的なサイエンス

『知』の在り方には,掲題の三つがあるような気がする。

 アートは,多分に『問題発見的』だ。アーティストは,作品を通じて様々な「問題」を提起する。

 それは,かなりの場合において今まで問題と看做されていなかったものを含む。あるいは,問題に限らず,アーティストの主観をアーティストと鑑賞者の間主観にまで昇華する(ことが望まれる)

 テクノロジーは,発見された問題やその他課題を解決することを目標とする。ために,アートとテクノロジーは相対し,また相互補完的である。

 サイエンスは,現象を記述する。

読書戦略

 

 上記の例は, 流石に比較対象が極端ではあるが, その分極端化で事態の本質を点いている。

 これを見ればわかるように, 読書には戦略性が求められる。

 特定の分野を掘り下げる専門家ならば重複するような図書は除くことができるし, またそもそも十進分類法のすべてに通暁する必要がないので, すべての知識を取り入れる必要はない。しかし, ジェネラリストを志向する人間(ジェネラリストである人間の必要性はこのBlog記事を参照のこと:http://seigaikijin495.blogspot.jp/2015/09/blog-post_11.html)には,「広範なディシプリンに亘り」「基礎的でもある程度詳細な」知識が求められる。自然, 読書という最も重要なインプット行為には戦略が必要とされる。

 読書一般の技法に関してはこのBlog 読書猿Classic: between / beyond readers の右に出るものがないが, 本記事でも私なりの方法を述べたいと思う。

 まず, 目標を確認しよう。

  • かなりのディシプリンに亘る知識を得たい。図書館十進分類法のうち,5-6種程度か。
  • その基礎的な水準の知識を得たい。

 しかし,「知識を得る」とはどういうことであろか。

 ひとつには,その分野における『文法』『語彙』を籠中のものとし,それらの概念や記号を自在に操れるということとも定義できる。実際にそこまでの水準に到達するのは難しいが,あるいは「その道の専門家が言うことを理解できる」という程度でも良い。なぜなら,今のような複雑化した社会においては,「解答を知っているか」という第一水準の知識もさることながら,「誰に聞けば解答を得られるか」という一階のメタ知識の重要性が増しているからである。そのため,「専門家の言っていることが,一般的な論理に照らして正しいか」ということが理解できる程度でも,実用には耐えうる。

 上記の水準に達しているか否かのメルクマールとして使用しうるのは,たとえば「一般的な形式論理を知っているか否か」「クリティカルシンキングができるか否か」「原典に立ち戻って検証できるか否か」といったような思考法であろう。加えて,個別ディシプリンの知識体系に関する理解度に関しては,以下の等式が成立するものと考える:

理解度=読書量×個別の図書の理解度

 ごく当たり前だが,この等式には意味がある。すなわち,よく頑張って矢鱈に難しい本を読んでしまったりして,結局時間と労力を無為に帰してしまうことがある。本来,かなりの出版文化を持つ日本語圏で日本語を母語として持っていることはアドバンテージであり,具体的には各ディシプリンの『入門書』を母語で読めるという点だ。必ずしも原典を最初から読む必要はなく,最初に入門書を読んでだいたいの知識体系を付ける。後に,(専門家を目指す者は)個々の分野の蘊奥を極めれば良い。

 ただし,この方法の実行には弱点がある。本がどういった本であるかは,実際に読まねばわからない,という点だ。これをカバーするには,

  • Amazon 等のレビュー(レビュワーの評価も見る必要がある)
  • 書経験が豊富な人,とくにその道の専門家の評

 などを参照する必要がある。

 

 纏めてみよう。

 ジェネラリストには,

  1. 形式論理,クリティカルシンキングなどの,一般性を持つ論理を最初に学び,
  2. レビューを参照して身に付けたい分野の入門書等を読み(この際にはコンパクトな新書等も望ましい)
  3. 各々のディシプリンのある程度コアな部分を抑えたのち,
  4. 興味のあるディシプリンの『間』にある部分も把握する。

 これで,専門家の意見を鵜呑みにすることなく傾聴し,かつ理解できる程度の知識体系は手に入ると思われる。この際に,語学などは文化圏の偏りを是正しうるため便利であるし,また数学も当然知っておいたほうが良いだろう。

 

読みたい本

 

オートポイエーシス・システムとしての法 (ボイエーシス叢書)

オートポイエーシス・システムとしての法 (ボイエーシス叢書)

 

 

 

日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)

日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)

 

 

 

国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀

国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀

 

 

 

 

 

 

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

国家興亡の方程式 歴史に対する数学的アプローチ

 

 

 

 

 

 

取り急ぎ,こんなところ。

優先順位を付けられない人≒世界観が一定しない人

「優先順位を付けられない人≒世界観が一定しない人」という仮説。

 私自身,優先順位付けが下手なことに関して人後に落ちないと自負する身だが,要は私のような手合は,その価値判断基準が明確化されていないわけである。価値判断基準が明確でないということは,およそ「何が価値があり,何が価値が低いか」という意味においての『世界観』に自己一貫性がないということだ。

 私の行動を(他人ごとのように)観察していると,『何をどうするか判断すること』に異様に長い時間をかけていて,かつその判断自体が場当たり的である。要は,その時その時で重要だと思ったことをやろうとはしているのだが,その判断材料としている時間的視野が異常に短く,かつ判断の結果とった行動を完遂する前に別の行動にうつり結局中途半端で終わる。これは,おそらくは一貫性を持つ世界観の欠如に起因している。

 この世界観の欠如で,私は世界に生起する個別具体の対象を一々把握し,判断し,対処することを余儀なくされる。もしも,最初から,全てに対応はできずとも,ある程度一貫性を持つ世界観を持っていれば,それに照応して物事を位階付け,それらに統一的枠組みの中で対応できると思われる。

 この『世界観』は,数学的には全順序を世界という集合に対して独自に導入し,位相化するといった意味である。では,どのような世界観を持てば,私のようなかなりの困ったちゃんでも生活を営めるであろうか。自分なりに考えてみたが,

  • まず,自分の能力も知識も有限であることを無論認めた上で,投げやりな態度を取らずに,可能な限り過不足なく物事に対処できるようなものである必要がある。
  • 更に,これは原理的には「全ての物事に対して」順序を定義可能でなくてはならない。瑣事同士とかでは順序は曖昧になりがちだが,しかしそれも含めて順序付けられる必要がある。
  • 拡張可能でなくてはならない。自分にとって未知の事象に対処できるよう,その世界観は未知の存在を組み込めるようにできている必要がある。

 こういった要請を満たす位相構造はあるだろうか? どう実装できるだろうか?

 残念ながら数学(とくに集合と位相)に明るくないので,正直言ってわからない。

 また,ここから先はある種『メタな価値観』によってくる部分が多いと思うが,私自身は今のところ次のような優先順位付けをしてみた。

 

  • 上位の順位付け
  1. 締め切りが迫っているタスク
  2. 今・ここで行えるタスク
  3. 全てを完遂することはできないが,一部は行えるタスク
  4. 多少の労力を払って環境を変え(移動するなど)れば行えるタスク

 

  • 下位の順位付け
  1. 大学院の修了に必要な行動
  2. 健康のため必要な行動
  3. その他の勉学
  4. 趣味

 

「上位の順位付け」でまずソートし,さらに同列のタスクに対しては「下位の順位付け」でソートする。

 無論,この戦略で上手くいくかはわからないが,とりあえずは「優先順位をつける」ことが重要であろう。何か良い順位付け手法をご存知の方,ご教示ください。

「専制2.0」?

 さて,周知のとおり『ジャスミン革命』でFacebookなどのソーシャルメディア,あるいはソーシャルネットワークサービス(以下,両者をまとめて便宜的に"SNS"と呼ぶ)が重要な役割を果たしたと言われている。詳述するまでもないが,一定段階以降の経過を措けば,当初のきっかけとして,SNSは確実に大きな役割を果たした。タハリールに集った若者のある程度の部分は,明らかにFBなどでのメッセージを受けてのことである。

 さて,本来SNS発祥の地が合衆国西海岸という非常にリベラル色の強い,民主主義の『総本山』アメリカの中でもとくに反権力的志向を持つ地域であることから,SNSは民主主義国家で主に流行しているように思われている。

 しかしながら,実際には中国の百度(バイドゥ)の微博(マイクロブログサービスである)などや,ロシアにも『ご当地SNS』が存在し,それらの利用者数は相当にのぼるものと思われる。これらは,多く独裁的な政権の監視下にあるか,もしくはより積極的にそれに協力している。他方,アメリカ発のFBが,アフリカでのウェブ環境整備に邁進している(http://www.gizmodo.jp/2014/03/facebook_80.html)。

 

 

 さて,何だか一気に情報だけ出してしまったが,もう少し要点を箇条書きすれば,私の主張はこのようになる;

  • 中国の百度は,今や共産党言論弾圧に手を貸している始末である。これは,SNSと国家権力の癒合は,ある意味でのディストピア化に貢献する,少なくとも,言論の自由を弱体化させる可能性を強く示唆している。
  • これは,必ずしも中国やロシアといった,権威主義体制国家に限った話ではない可能性も示唆される。なぜそう主張できるか? まず,FBやTwitterといった大手SNSの収益は,最貧国のGDP/GNPを軽く超えている。その上,上記の記事のように,それらの国民の「ネット接続を独占的に」行おうとしている。仮に,FBが自社に不利な議論を,それらの国で封じることも,(原理的には)できる。
  • 更に言えば,それらの行為は先進国でも可能だ。「Google八分」。ただし,SNSが独占的にウェブ接続を提供している後進国でやった方が,効果は無論高い。
  • 謂わば,中国が国連における「票田」としてアフリカに援助を行うように,FBなどが(もちろんFBだけではない)後進諸国に同様なことを行える。あるいは,国家の方がSNSに擦り寄る可能性もある。

 もちろん,これは私の妄想で,そんな心配はない,と一蹴されればそれまでである。

 しかし,SNSがある種の『権力』,それも隠微かつ浸透的なものとして振る舞う可能性は皆無だろうか。「専制2.0」が我々の頭上を覆う,それは杞憂か。歴史的に,権力者/支配者/統治者は,自己が被治者を制御できるものは,どんなものであれ使ってきたことを考えると,「可能性は非常に低い」とは言えない気がするのだ。

 もしも,これが杞憂ではないなら,いかなる対策を講じうるか?

 ひとつには,本来のインターネットが持っていた,「誰でも参加できる」という特性を復活させることが考えられる

「PCの死」と「平等なウェブ世界の終焉」 « WIRED.jp

 もしくは,「オープンソースSNS」(もうありそうだけど)をつくるか。

 ただ,どちらにせよ,既に何億人ものユーザを抱えるFBなどと伍するのは厳しそうだ。次善として,FB・Twitterなど,「一定以上(一億人とか)の人口を抱えるSNS」をある程度,公的かつ国際的な機関に監視させる,といったものはあるかもしれない。逆にいえば,これはある種の『お墨付き』ともとれなくはないわけで,SNS側にもメリット皆無ではないだろう(デメリットと比較する必要もあるが)

 さらに,SNS内部で「三権分立」「自治」「民主主義」のようなメカニズムを埋め込むのも,それほど悪くないかもしれない。

 

 とにかく,SNSという新手のコミュニティのガバナンスには,まだ改良の余地がありそうである。